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세상논란거리/정치

한일협정, 무엇이 문제인가

by 체커 2019. 8. 17.
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(1) '한일협정'은 언제 양국 사이에 조인 된 것인가요? 

1965년입니다. 당시 박정희 정권이 1961년 5.16 쿠데타 이후 민정이양을 약속했다가 결국 이를 뒤집고 박정희 자신이 정권의 수반이 된 다음, 정치적 불안정이 계속되면서 무척 다급하게 이뤄진 조약입니다. 

(1-1) "다급하게" 라니요? 

한일회담의 내용이 알려지면서 국내에서는 거센 반대운동이 일어났습니다. 굴욕적이고 매국적인 협상이라는 반발이었습니다. 그러자 박정희 정권은 1964년 6월 3일, 비상계엄을 선포하고 군까지 동원해서 반대운동을 무력으로 진압했습니다. 

이듬해 1965년 6월 22일 조인한 뒤, 국회에서는 8월 14일 공화당 1당과 무소속 2명을 구색으로 껴 맞춰 야당이 총사퇴 결의를 하고 불참한 가운데 내용 검토의 시간도 충분히 갖지 않은 채 일방적 비준을 강행한 것입니다. 

 

▲1965년 한일협정 조인식 ⓒ대한민국 역사박물관 디지털 아카이브
▲1965년 한일협정 반대 성토대회 ⓒ대한민국 역사박물관 디지털 아카이브
▲1965년 한일협정 반대 시위 ⓒ대한민국 역사박물관 디지털 아카이브

(2) '한일협정'을 위한 회담 언제부터 시작한 건가요? 

1951년도부터 공식 논의가 시작됩니다. 1차 회담은 1952년입니다. 1965년 7차 회담으로 협정이 조인되었으니 무려 14년 동안 진행한 회담이었습니다.  

그러나 한국은 1948년부터 일본과 배상문제를 정리할 준비를 합니다. 식민지 피해, 전쟁피해와 관련한 배상요구가 핵심이었습니다. 1948년은 한국이 1945년 해방 후 미군정의 지배에서 벗어나 정부를 수립한 해였기 때문에 이런 준비가 가능했습니다. 

일본은 7년 동안 미군정의 지배를 받았기 때문에 1948년은 일본 정부가 세워지기 전이라 한일회담은 불가능했습니다. 미국을 중심으로 한 연합국과 일본의 전후(戰後)처리를 위한 1951년 9월의 “샌프란시스코 강화조약(講和條約)”이 있고서야 비로소 일본은 주권을 회복할 수 있게 됩니다. 

1951년 한일회담은 이렇게 한국과 일본의 정부와 정부 차원이 생겨난 시점에서 시동(始動)을 걸게 된 것입니다. 다시 말해 1951년 한일회담은 한국보다 일본이 좀 늦게 정부로서 기능하면서 시작되었습니다. 

(2-1) “강화조약”은 전쟁을 치룬 나라끼리 평화적 관계로 들어가기 위한 회담이라고 알고 있습니다. 한국도 일본에 전쟁에 해당하는 무장독립투쟁을 했는데, 샌프란시스코 강화조약 회의에 참여했나요? 

아닙니다. 하지 못했습니다. 미국은 애초 한국의 참가에 긍정적이었으나 영국은 그렇지 않았습니다. 영국에게 언젠가 반드시 따져 물어야 할 바입니다. 특히 패전국의 입장에 있던 일본이 적극 반대하고 나섰습니다. 

당시 일본의 요시다(吉田茂)) 수상은 “만일 한국이 조약 서명국이 된다면 100만의 재일 조선인들을 연합국민으로 취급하지 않으면 안 된다. 일본은 경제적 부담으로 난처한 지경에 빠지게 될 뿐만 아니라 재일조선인의 대다수는 공산주의자이다. 이들에게 조약의 재산상 이익을 주는 것은 곤란하다.“라고 주장했습니다. 

미국은 결국 일본의 편에서 입장을 바꿔 1951년 5월 경, 한국을 제외하는 쪽으로 방향을 굳혔습니다. 일본을 냉전의 아시아 방어선으로 확정했기 때문이었습니다. 일본의 부담을 줄여야 한다는 방침이 선 것입니다. 한국인들의 희생을 댓가로 말이지요.  

(2-2) 한국이 샌프란시스코 강화조약 서명 작업에 참여하지 못한 결과 뭐가 문제가 된 것인가요? 

임시정부는 1941년 아시아-태평양 전쟁이 일어나자 대일선전포고(對日宣戰布告)를 합니다. 일본을 상대로 한 교전국(交戰國)의 위치에 있게 된 것입니다. 동시에 연합군의 일원이 될 기회가 생겨난 것입니다. 그렇지 않아도 오랫동안 독립투쟁을 한 것도 일본과의 전쟁 당사자라는 국제법적 위상을 인정받는 근거입니다. 

이렇게 될 경우, 한국은 일본에 대해 교전국, 또는 승전국의 입장에서 전쟁배상 문제를 논의하고 배상요구를 할 수 있는 위치에 서게 됩니다. 대단히 중대한 사안이었습니다.

이 길이 막힌 것입니다. 여기서부터 길고 고통스러운 한일회담의 역사가 시작된 것입니다. 

[韓日協定、何が問題なのか] ① 

今から〈韓日協定の何が問題なのか?〉シリーズを始めます。
とても優しい問答形式にして、少しずつ複雑な論議に至る内容を順々に丁寧にお知らせしたいと思います。 

〈韓日協定〉は、今日韓国と日本の関係を外交的に発展させるための最も重要な文書です。
この内容とその解釈、論議の視点そしてより大きな脈絡の歴史を合わせて見つめてみようと思います。 

(1)〈韓日協定〉はいつ両国間で調印されたのですか? 
1965年です。
 当時の朴正煕(パクチョンフィ)政権が1961年5.16クーデター以降軍政から民政移譲を約束していたのに結局はこれを覆して、朴正煕(パクチョンフィ)自身が政権の首班になった後、政治的不安定が続く中、かなり切羽詰まった状況で結ばれた条約です。

(1-1)"切羽詰まる"とは? 
 韓日会談の内容が広がるにつれ、国内では激しい反日運動が起こりました。屈辱的で売国的な交渉というものでした。すると朴正煕(パクチョンフィ)政権は1964年6月3日、非常戒厳令を宣布して、軍まで動員して反対運動を武力で鎮圧しました。 
 翌年1965年6月22日調印された後、国会では8月14日共和党 1党と無所属2名を抱き込んで、野党が総辞職の決意をして不参加の中、内容検討の時間も充分に無いままに一方的に批准を強行したものでした。 

<韓日協定、何が問題なのか?> 2 

(2) <韓日協定>のための会談はいつから始まったのですか?

1951年度から公式論議が始まります。 

1次会談は1952年です。 
1965年7次会談で協定が調印されるまで、なんと14年の間進められてきた会談でした。

韓国は1948年から日本と賠償問題を整理するための準備をします。

植民地被害、戦争被害と関連した賠償要求が核心でした。1948年は韓国が1945年解放後、米軍政の支配から逃れ政府を樹立した年であったため、このような準備が可能でした。

日本は7年の間米軍政の支配下であったので、 
1948年は日本政府が樹立される前だったことから韓日会談は不可能なことだったのです。

アメリカを中心とした連合軍と日本の戦後処理の為の1951年9月の"サンフラシスコ講和条約"
が結ばれたことにより、ようやく日本は主権を回復することが出来たのです。

1951年 韓日会談はこのように韓国よりも日本が少し遅く政府として機能し始めてから始まりました。 

(2-1) “講和条約”は戦争を起こした国どうし平和的関係を築く為の会談であると知られています。 
 韓国も日本に戦争に該当する武装独立運動をしたのですが、サンフランシスコ講和条約の会議に参加しましたか? 

いいえ、参加できませんでした。 

アメリカは当初韓国の参加に肯定的であったのですが、イギリスはそうではなかったのです。
イギリスにはいつか必ず問いただしたいところです。特に敗戦国の立場にあった日本は露骨に反対していました。 

当時日本の吉田茂首相は"万一韓国が条約の署名国になるとしたら100万の在日朝鮮人を連合国民として扱わないといけない。日本は経済的負担で困難な状況になるだけではなく、在日朝鮮人の大多数は共産主義者だ。この者たちに条約の財産上の利益を与えるのは困難なことだ。"と主張しました。 

アメリカは結局日本よりに立場を変え、 
1951年5月頃韓国を排除する方向に舵を切りました。日本を冷戦のアジア防御線に確定したためでした。日本の負担を減らさないといけないという方針に立ったのです。韓国人たちを犠牲の対価としてです。 

(2-2) 韓国がサンフランシスコ講和条約の署名作業に参加できない結果、何が問題になったのですか? 

臨時政府は1941年アジア太平洋戦争が起きると対日宣戦布告をします。
 日本を相手にした交戦国の位置に立ったのです。同時に連合軍の一員になる機会が生まれたのです。それじゃなくても長い間独立闘争をしたことも日本との戦争当事者という国際法的位相を認められた根拠です。 

このような場合、 
 韓国は日本に対して交戦国、または戦勝国の立場で戦争賠償問題を論議して賠償要求が出来る位置に立つことが出来るのです。 
とても重大な事案でした。

この道が途絶えたのです。 
ここからは長く苦しい韓日会談の歴史が始まるのです。


 

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(3) 샌프란시스코 강화회의에서 "한국제외" 방침이 결정된 것은 정말 이해하기 어렵네요. 게다가 이걸 미국이 결정했다니, 1945년 8월 15일, 우리는 해방이 된 거 잖아요? 그래서 독립된 주권국가가 된 거구요. 미국은 도대체 우리 한국을 뭘로 본 거에요?  

해방된 나라가 아니라, 일본의 지배가 종료된 나라로 본 것뿐입니다. 이 이야기는 조금 낯설거나 복잡한 내용을 가지고 있으니까 정신을 바짝 차리고 들어보세요.

(3-1) 하지만 그게 그거 아닌가요? 식민지에서 해방되었으면 독립국가가 되는 게 당연하지요.

1945년 "한국에 대한 권위의 이양(Transfer of Title to Korea)"이라는 국무부의 문건은 "점령 자체는 영토에 대한 주권의 변경을 초래하지 않는다"라고 적고 있습니다. 

일본의 패전으로 한반도 남쪽에 미군정이 시작되었지만 그렇다고 1. 한반도에 대한 일본의 주권이 해체되었다거나, 2. 그 주권이 한국인에게 반환되었다, 고 하지 않은 것입니다.

(3-2) 무슨 말인지 잘 모르겠어요. 

전쟁에서 진 상대방의 영토를 점령했다고 그 땅이 곧 점령자에게 귀속(歸屬)되거나 또는 원래의 주민에게 그 권한이 반환되는 게 아니라는 이야기에요. 

달리 말해서 일본이 국제법적 주권의 영향력을 행사한 조선을 미국/소련이 점령했다고 해서 그 땅에 대한 주권을 미군정/소련군정이 곧바로 가질 수 있다거나 조선/한국사람이 그 주권을 돌려받아 행사할 수 있는 건 아니라는 겁니다. 

 

▲ 1951년 미국 샌프란시스코 강화조약 체결식.

(3-3) 그러니까 주권을 빼앗긴 식민지 상태가 계속 되고 있었다는 이야기네요?

주권(sovereignty)은 그 지역에 살고 있는 주민에게 행사하는 통치권인 대인주권(對人主權/imperium)과 땅, 바다, 하늘에 대한 영토주권(領土主權/dominium)이 있답니다. 

국무부 문건은 조선에 대한 일본의 대인주권은 패전으로 효력이 정지되었지만, 영토주권은 여전히 유효하다는 논리입니다. 국제법상, 대인주권의 행사(行使)는 미군정이 하는 것이 되는 거구요.

(3-4) 네? 그러니까 1945년 8월 15일 조선에 대한 영토주권을 가진 나라는 여전히 일본이라는 말인가요? 

국제법상 일본이 조선에 대한 일체의 권리를 포기하는 것을 공식화해야 이 문제가 풀리는 것이지요. 그렇지 않은 상태에서 전승국인 미국이 이 지역에 대한 관리를 위해 통치권을 발동하려면 신탁통치를 실시하는 방식이 되는 겁니다.  

해방 후 남한에서 정치적으로 크게 문제가 되었던 신탁통치안은 미국이 해석한 이런 국제법적 배경이 있답니다.  

(3-5) 그래도 우리 한국이 임시정부도 가지고 있었고 오랫동안 독립투쟁도 했으니, 일본의 패전과 함께 우리가 주권국가로서의 권리를 가지는 것은 당연하고도 자동적인 것 아닌가요?

그래야 마땅하지요. 그러나 미국의 생각은 달랐습니다. 미군정 법무부의 조선의 국제법적 지위에 대한 다음의 해석과 주장을 어떻게 생각하시는지요?  

"일본은 1945년 9월 2일 포츠담 선언을 승인함으로써 한국에 대한 주권을 박탈당했다... 그러나 적대관계의 종료는 한국을 합병 이전으로 복귀시키거나 한국의 새로운 국가수립으로 이어지지 않는다... 한국의 해방은 한국인의 혁명운동으로 달성되지 않는다. 한국에 대한 일본의 지배는 전승국의 결정에 의해 끝났으며... 한국이 국가들 사이에서 독립된 국가로 간주될 때까지 한국의 주권은 정지상태(abeyance)였다..." 

샌프란시스코 미국 특사 덜레스는 "미국은 한국 임시정부를 승인한 적이 없다"고 말했고 "독립투쟁도 개인적 행위에 불과했을 뿐"이라고 했습니다.  

임시정부 요인(要人)들이 해방후 미군정에 의해 개인자격으로 귀국하게 되는 것도 모두 이런 미국의 한국에 대한 생각에서 비롯되었습니다.  

(3-6) 그렇게 조선에 대한 일본의 주권을 인정한다는 것은 1910년 '한일합병(韓日合倂)'이 국제법적으로 아무 문제가 없다는 식이 되는 거 잖아요? 

그렇습니다. 미국은 1910년 한일합병의 국제적 불법성을 인정하지 않았습니다. 우리로서는 분통이 터지는 일이지만.  

샌프란시스코 강화조약체제는 식민지를 지배했던 전승국의 이해관계를 조절하는 문제 또한 있었기 때문입니다. 식민지 지배의 불법성이 국제법적으로 정리되는 것은 너무나도 중대한 문제였습니다. 그래야 불법행위에 대한 배상(reparations)이 가능해질 수 있는 것입니다. 

미국은 이런 논의와 틀을 봉쇄하고 말았습니다. 일본은 이런 틀을 자신의 식민지 지배 합리화에 적극 활용합니다. 쉽게 정리할 수 있는 역사가 아니지요? 이 또한 차근차근 정리해서 알려드리겠습니다.  

다시 강조하고 강조하건데 '한일합병'의 국제법적 불법성을 확인하고 주장하는 것은 한일협정, 한일관계의 모든 사안을 명확하게 정리하는 가장 중요한 출발점입니다. (계속)


[韓日協定、何が問題なのか] ② 

(3)サンフランシスコ講和会議で"韓国を除く"方針が決定されたのは本当に理解しにくいことです。 

ましてこのことをアメリカが決定したというなんて、1945年8月15日、私たちは解放されたのではないでしょうか?そして独立した主権国家になりました。アメリカは一体私たち韓国をなんと思っているのでしょうか? 

解放された国ではなく、日本の支配が終わった国とだけしか見ていなかったのです。このことは少し聞きなれない複雑な内容を呈しているので、気持ちをしっかり引き締めて聞いてください。

(3-1)しかしそれはおかしいでしょう?植民地から解放されたら独立国家になるのが当然でしょう。 

1945年"韓国に対する権威の移譲"という国務部の文書では"占領自体が領土に対する主権の変更をもたらさない"と記されています。 
日本の敗戦で韓半島の南側に米軍政が始まったのですが、だからといって
1.韓半島に対しての日本の主権が解体されたとか 
2.その主権が韓国人に返還されたというものではなかったのです。

(3-2)どういうことかがよくわかりません。 

戦争で負けた相手の領土を占領したからといって、その領土がすぐに占領した側に帰属されたり、又原住民にその権限が返還されるというのではないということです。

他の言い方をすれば、日本が国際法的主権の影響力を行使した朝鮮を米国/ソ連が占領したといって、その土地に対する主権を米軍政/ソ連軍政が直ちに持てるとか、朝鮮/韓国人がその主権を返してもらって行使することが出来るというものではないということです。

(3-3)要するに、主権を奪われた植民地状態が引き続き続いていたということですね?

主権はその地域に住んでいる住民に対する統治権である対人主権と、土地、海、空に対する領土主権があると言われます。 
国務部文書では、朝鮮に対する日本の対人主権は敗戦で効力が停止しましたが、領土主権は依然として有効だという論理です。国際法上、対人主権の行使は米軍政がするということですね。

(3-4) 
え?だからといって1945年8月15日朝鮮に対する領土主権を持つ国が未だ日本ていうことなのですか? 

国際法上、日本が朝鮮に対して一切の権利を放棄することを公式化すればこの問題は解決するのです。 

そうではない状況で戦勝国のアメリカがこの地域の管理のために統治権を発動しようとすれば信託統治を実施する方式になります。 
解放後南側で政治的に大きく問題になった信託統治案は、アメリカが解釈したこのような国際法的背景があったということです。 

(3-5)それでも私たち韓国が臨時政府も持っていたことと、長い間独立闘争も行なっていたので、日本の敗戦とともに私たちが主権国家としての権利を得ることは、当然であり自然なことではないのでしょうか? 

至極当然のことでしょう。 
しかしアメリカの考えは違っていました。

米軍政国務部の朝鮮の国際法的地位に対する次の解釈と主張をどのように思われますか?
ー"日本は1945年9月2日ポツダム宣言を承認する事で韓国に対する主権を剥奪された.....
しかし敵対関係の終わりは韓国を併合前の状態に復帰させることや、韓国の新しい国家樹立に繋がることではない...韓国の解放は韓国人の革命運動で達成されるのではない。韓国に対する日本の支配は戦勝国の決定により終了し.....韓国が国家間で独立した国として見なされるまで韓国の主権は停止状態だった....." 

サンフランシスコ 米国特使ダレスは"アメリカは韓国臨時政府を承認したことがない"と言って"独立闘争も個人的な行為であったに過ぎない"と言いました。臨時政府要人たちが解放後米軍政により大韓民国臨時政府としてではなく、個人の資格として帰国するようになったことも全てこのようなアメリカの韓国に対する考えによるところでした。 

(3-6)そのように朝鮮に対する日本の主権を認めることは1910年〈韓日併合〉が国際法的に何の問題も無かったということになるのではないでしょうか? 

そうです。 
アメリカは1910年韓日併合の国際法的不法性を認めませんでした。私たちとしては怒りが爆発するところですが。 

サンフランシスコ講和条約体制は、植民地を支配していた戦勝国の利害関係を調節する問題もあったためです。植民地支配の不法性が国際法的に整理されるのはあまりにも重大な問題でした。そうすれば"不法行為に対する賠償が可能になるからです。"

アメリカはこのような論議と枠組みを封じてしまいました。日本はこのような枠組みを自国の植民地支配合理化に積極的に活用しました。国際法という枠組みが超大国中心、植民地体制維持を正当化する限り歴史的正義の実現は相当難しくなるのです。

簡単に整理することの出来る歴史ではないでしょう?このことも順々に丁寧に整理してお知らせします。 

再度強調に強調を重ねますが、 
〈韓国併合〉が国際法的不法性を確認して主張することは韓日協定、韓日関係の全ての事案を明確に整理する最も重要な出発点です。 


 

프레시안

 

(4) 한국이 연합군의 일원으로 교전국의 지위를 인정받지 못한 샌프란시스코 강화조약은 우리로서는 매우 불리한 조처가 되고 말았는데, 그걸 우리가 꼭 따를 필요가 있는 건가요?

결코 아닙니다. 우리는 이 강화조약의 서명 당사자가 아니기 때문입니다. 그래서 이 조약을 우리가 국제법적으로 지킬 아무런 의무가 없습니다. 

샌프란시스코 강화조약에서 “한국제외”는 불리한 대목이었습니다. 그러나 놀라운 “역설(逆說)”이 발생하게 됩니다. 당시로서는 서명 당사자가 되지 못한 억울함이 있었지만, 그 바람에 우리는 샌프란시스코 강화조약으로부터 자유로운 입장이 된 것입니다. 

(4-1) 아, 그렇군요. 그래도 그 조약이 일본과 우리의 관계를 규정한 것 아닌가요?

규정된 내용은 아주 일부일 뿐입니다. 샌프란시스코 강화조약은 미국을 비롯한 연합국과 일본 사이의 조약입니다. 일본의 권리 내용과 의무가 있을 뿐입니다. 한국의 의무는 그 어디에도 없습니다. 

뿐만 아니라 이 조약은 승전국과 패전국 사이의 전후 관계 재정립 문제가 주제였기 때문에 식민지 배상 문제는 일체 논의되지 못했습니다. 미국을 비롯한 연합국과 일본은 이 강화조약에서 식민지 배상 문제를 거론하지 않았습니다. 

샌프란시스코 강화조약이 식민지 배상 문제를 거론하지 않았기 때문에 우리도 거론하고 제기할 수 없다고 할 수 없습니다.  

그 문제는 샌프란시스코 조약에서 누락된 것이기 때문이며 식민지 피해 당사자인 우리는 당연히 제기할 권리가 있고 이 권리를 중심으로 한-일 관계를 정리해나가야 하는 것입니다. 

 

▲패전 후 맥아더 옆에 선 히로히토 천왕. 맥아더의 자세는 다소 삐딱한 반면, 히로히토 천황은 꼿꼿한 포즈를 취하고 있다.

(4-3) 뭔가 속이 시원해지는 기분이에요. 그렇지만 미국이 우리의 해방, 독립, 임시정부를 하나도 승인하지 않았는데 이런 문제 제기가 가능할까요? 

식민지 배상 문제를 제기할 권리가 우리에게 있다는 건 지금도 여전히 유효한 것입니다. 우리의 해방과 식민지 처리 문제를 미국이 승인하지 않았다고 해서 그게 곧 우리가 그대로 따라야 한다는 법은 없습니다. 우리는 당시 이미 주권국가이기 때문입니다. 샌프란시스코 강화조약이 1952년 체결되는데 우리는 유엔이 1948년 승인한 합법적 정부입니다. 

미국과 연합국이 샌프란시스코 강화조약에서 정한 내용은 패전국 일본에게 부과한 의무와 원칙이지 우리에게 부과한 의무와 원칙이 아닙니다. 

(4-4) 그래도 한국과 관련한 내용이 있지 않나요? 아주 일부의 내용이 규정되어 있다고 해도 말이지요. 

일본은 한국에 대해 권리를 포기하고 한국과의 청구권 처리는 “당국 간의 특별 협정”으로 처리하라는 내용이 있습니다. 


*제2조 a) 일본국은 한국의 독립을 승인하여 제주도, 거문도 및 울릉도를 포함하는 한국에 대한 모든 권리, 권원(權原/title) 및 청구권을 포기한다. Article 2 (a) Japan, recognizing the independence of Korea, renounces all right, title and claim to Korea, including the islands of Quelpart, Port Hamilton and Dagelet 

**제4조 a)........ 재산 및 청구권의 처리는 일본국과 이들 당국 간의 특별협정의 주제로 한다. Article 4 (a) Subject to the provisions of paragraph (V) of this Article, the disposition of property of Japan and of its nationals in the areas referred to in Article 2, and their claims, including debts, against the authorities presently administering such areas and the residents (including juridical persons) thereof, and the disposi tion in Japan of property of such authorities and residents, and of claims, including ; debts, of such authorities and residents against. Japan and its nationals, shall be | the subject of special arrangements between Japan and such authorities. The property of any of the Allied Powers or its nationals in the areas referred to in Article 2 shall, in so far as this has not already been done, be returned by the ad ministering authority in the condition in which it now exists. (The term nationals whenever used in the present Treaty includes juridical persons.)
(b) Japan recognizes the validity of dispositions of property of Japan and Japanese nationals made by or pursuant to directives of the United States Military Government in any of the areas referred to in Articles 2 and 3. 


여기서 말하는 청구권의 개념은 앞서 밝혔듯이 전쟁배상도 아니고 식민지 배상도 아닙니다. 채무관계의 정리를 뜻합니다. 전쟁배상과 식민지 배상이 거론되지 않았기 때문입니다.

게다가 일본은 한국에 대한 일체의 권리, 권한, 청구권을 포기하도록 되어 있으니 그 어떤 청구도 우리에게 할 수 없게 되어 있습니다. 

남은 것은 우리가 일본에게 따져 받아야 할 재산처리와 채무 문제입니다. 여기에 식민지 배상과 전쟁배상까지 합해야 제대로 된 계산이 성립합니다. 이게 우리의 권리가 됩니다.

샌프란시스코 강화조약은 우리의 권리에 대한 제약을 명시하지 않았습니다. 담겨져 있지 않은 내용은 다른 조약이나 협정으로 해결되어야 하는 것입니다. 이 내용이 빠진 한일협정은 불완전하고 미완의 협정일 뿐입니다. 

(4-5) 연합군의 일원으로서의 교전국은 인정받지 못했지만 우리는 분명히 독립투쟁을 통해 일본과 교전했고, 식민지로 일본에게 강점된 불법적 침략도 사실이니 이 문제는 반드시 해결되어야 하는 거군요. 

그렇습니다. 바로 그겁니다. 

1965년 한일협정과 관련해서 일본의 주장대로 (재산처리와 채무 관련) 청구권이 완전히 해결되었다고 해도, 식민지 피해 배상, 전쟁 피해 배상은 아직도 해결되지 못했습니다. 바로 여기서 1965년 한일협정 체제의 한계가 드러나는 겁니다. 

이것이 샌프란시스코 강화조약에 대한 새로운 관점이 절실한 이유입니다. “역설의 논리”가 존재하고 있다는 걸 잊어서는 안 됩니다.


[韓日協定、何が問題なのか] ③ 

(4)韓国が連合軍の一員として交戦国の地位を認められないサンフランシスコ講和条約は私たちとしては、大変不利な措置になってしまったのですが、その措置に私たちが必ず従う必要があるのでしょうか? 

決してそうではありません。 
私たち韓国はこの講和条約の署名当事者ではないからです。だからこの条約を私たちが国際法的に守らなければならない義務はありません。 

サンフランシスコ講和条約で"韓国除外"というのは不利な部分でした。しかし驚くような逆説が発生することになります。当時としては署名当事者になれないという悔しさはありましたが、そのおかげで私たちは講和条約から自由な立場になることができました。

(4-1)あ、そうなのですね。それでもその条約が日本と私たちとの関係を規定したのではないのですか? 

規定された内容はほんの一部分にすぎません。サンフランシスコ講和条約はアメリカをはじめとする連合国と日本との条約です。日本の権利の内容と義務があるだけで、韓国の義務はそのどこにも記載がありません。 

それだけではなく、この条約は戦勝国と敗戦国の間の戦後関係再定立問題が主題であった為、植民地賠償問題は一切論議されませんでした。アメリカをはじめとする連合国と日本はこの講和条約で植民地賠償問題を議論しませんでした。 

サンフランシスコ講和条約が植民地賠償問題を言及しなかったために、私たちも言及し提起しないという訳にはいきません。この問題はサンフランシスコ講和条約で抜け落ちたことが原因であり、植民地被害当事者である私たちは当然提起する権利があり、この権利を中心とした韓-日関係を整理していかなければなりません。 

(4-3)何か胸のつかえが降りる気分ですね。 
しかしアメリカは私たちの解放、独立、臨時政府を何一つ承認しなかったのに、このような問題提起が可能でしょうか? 

植民地賠償問題を提起する権利が私たちにあるというのは今でも依然として有効なことです。私たちの解放と植民地処理問題をアメリカが承認しなかったからといって、そのまますぐに私たちが従わなければならないないというものではないのです。 

私たちは当時すでに主権国家であったためです。サンフランシスコ講和条約が1952年締結されたのですが、私たちは国連が1948年承認した合法的政府です。

アメリカと連合国がサンフランシスコ講和条約で決めた内容は敗戦国日本に課した義務と原則であり、私たちに課した義務と原則ではありません。 

(4-4)それでも韓国と関連した内容があるのではないでしょうか?ほんの一部の内容が規定されていたとしてもです。 

日本は韓国に対する権利を放棄して韓国との請求権処理は"当国間の特別協定"で処理しなさいという内容があります。 

✳︎第二条 (a)日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権限及び請求権を放棄する。 

✳︎✳︎第四条 (a)......財産並びに...住民の請求権の処理は、日本国とこれらの当局との間の特別取極の主題とする。第二条に掲げる地域にある連合国又はその国民の財産は、まだ返還されていない限り、施政を行つている当局が現状で返還しなければならない。
 (b)日本国は、第二条及び第三条に掲げる地域のいずれかにある合衆国軍政府により、又はその指令に従って行われた日本国及びその国民の財産の処理の効力を承認する。

ここでいう請求権の概念は前述した戦争賠償でもなく植民地賠償でもないのです。債務関係の整理のことを意味します。戦争賠償と植民地賠償は議論されなかったからです。

まして日本は韓国に対する一切の権利、権限、請求権を放棄するようになっているため、そのどんな請求も私たちには出来なくなっています。残った問題は私たちが日本を問いただし、財産処理と債務問題を勝ち取ることです。 

ここに植民地賠償と戦争賠償まで合わせると正当な計算が成立します。これが私たちの権利になるのです。 

サンフランシスコ講和条約は私たちの権利に対する制約を明示しませんでした。記載されていない内容は、違う条約や協定で解決されないといけません。この内容が抜け落ちた韓日協定は不完全であり未完の協定にすぎないのです。 

(4-5)連合軍の一員としての交戦国としては認められなかったけれど、私たちは明らかに独立闘争を通じて日本と交戦し、植民地として日本に占領されたという不法的侵略も事実であり、その問題は必ず解決しないといけないことでもあります。 

そうです。まさにそのとおりです。 

1965年韓日協定に関連して日本の主張どおり(財産処理と債務関連)請求権が完全に解決されたと言っても、植民地被害賠償、戦争被害賠償は未だに解決されていません。まさにこのことが1965年韓日協定体制の限界が露呈したのです。このことがサンフランシスコ講和条約に対する新しい観点が切実なことになる理由です。 

"逆説の論理"が存在しているということを忘れてはなりません。


 

프레시안

 

(5) 듣고 보니 한일협정 논의에서 샌프란시스코 강화조약의 성격을 파악하는 일이 참으로 중요하다는 생각이 듭니다. 그런데 한일협정에 대해 문제를 제기하면 이 조약을 거론하면서 “’국제법’도 모르는 소리”, 라는 이야기를 듣기도 합니다. 우리가 국제법을 알지도 못하고 지키지도 않는다는 주장이지요. 이게 맞나요? 

아닙니다. 다시 강조합니다만, 우리는 샌프란시스코 강화조약의 서명당사자 국가가 아니기 때문에 우리에게 부과된 의무나 강제조항이 없습니다. 일본이 포기해야 할 권리, 일본이 책임져야 할 의무가 있을 뿐입니다. 서명 당사자 국가들 간의 국제법일 뿐입니다. 

우리는 필요한 부분만 근거 내지 참고사항으로 삼으면 되는 것입니다. 우리가 받아들일 수 없는 것은 받아들이지 않을 권리가 자동적으로 있는 것입니다. 더군다나 이 조약은 우리로서는 도저히 받아들일 수 없는 내용을 가지고 있습니다. 

(5-1) 네? 그게 뭔가요? 

샌프란시스코 강화조약은 한국을 식민지에서 “해방”된 나라로 여기지 않고 일본으로부터 “분리(seperation)”된 지역으로 취급했습니다. 

“해방된 지역”과 “분리되는 지역”에 대한 구별은 매우 중요합니다. 한국은 일본이 불법적인 강점으로 획득한 식민지가 아니라 조선과 일본 사이에서 합병조약을 체결하여 국제법적으로 정당하게 취득한 영토인데 패전으로 그 권리가 포기되어 일본 국가로부터 분리해야 하는 지역이라는 논리입니다. 일본이 바라던 바입니다. 

승전국들이 자신들에게 끼친 전쟁의 피해책임은 일본에게 묻되 식민지 배상의 문제는 덮어주는 식으로 처리한 것입니다. 여기서부터 제대로 된 한일관계는 어긋나기 시작합니다. 

(5-2) 너무 화가 나요. 

네, 맞습니다. 우리의 입장에서는 대단히 부당한 조약입니다. 지금도 분노하고 반드시 따져야 할 내용입니다. 이 책임은 일차적으로 이런 조약을 만든 미국에게 있습니다. 

게다가 우리보다 뒤늦게 정부가 수립된 일본(1952년)이 먼저 정부가 세워진 한국(1948년)의 독립을 승인한다는 것은 말이 되지 않는 조항입니다. (제2조 (a))

이렇게 되면 우리는 1948년이 아니라 1952년 일본의 승인으로 독립한 셈이 됩니다. 이게 어떻게 우리가 받들어야 할 국제법인가요? 비판과 규탄의 대상이지요.

1952년 1차 회담 당시 한국 측 대표단도 바로 이 문제를 제기했습니다. 얼마나 기가 막혔겠어요? 

(5-3) 국제법에 대해 새롭게 생각하게 되었습니다. 

네, 그래야 합니다. 일본은 식민지 문제 처리가 분명하지 않은 샌프란시스코 강화조약이 한일관계를 정리하는데 자신들에게 유리하니까 국제법이라는 주장으로 이걸 근거삼아 우리에게 들이댄 것입니다.  

이와 관련한 한국 국내의 보수 언론과 일부 지식인들의 “국제법 운운”의 주장도 국제법이 뭔지 제대로 모르는 무지한 발언일 뿐입니다.  

(5-4) 그렇다면 샌프란시스코 조약의 기본 성격이나 본질을 뭐라고 하면 되나요?

샌프란시스코 조약은 서로 전쟁을 했던 나라들, 승전국과 패전국 사이의 관계를 정리한 조약입니다. 하나의 체제, 그러니까 “전후질서(戰後秩序)”라고 할 수 있습니다. 하지만 패전국 일본을 포함한 구(舊) 제국주의 국가들 간의 식민지 처리 문제는 제대로 짚고 넘어가지 않은 것입니다. 

인류 보편의 역사발전이라는 관점에서 봐도 샌프란시스코 강화조약은 시대역행적이었습니다.

식민주의 시대가 종식되는 시대에 가장 중요한 주제는 “탈식민주의” 작업입니다. 이걸 담지 않은 강화조약과 전후질서는 당연히 문제를 짚고 제기해야 마땅합니다.

이 조약과 질서가 일본의 전쟁책임을 묻고 기존의 권리를 포기하게 하는 전후처리의 기능을 했다고 해도 그 질서의 식민주의적 본질은 극복되어야 하는 것입니다. 

(5-5) 어떻게 하면 되지요? 

일본은 지금이라도 하루 빨리 한반도 전체에 대한 불법적 강점과 식민지 피해에 대해 근본적인 사죄와 함께 1965년 한일협정체제에서 한사코 빼먹은 청산의 실제적 과정을 밟아야 합니다. 이게 답입니다. 제대로 풀지 않으면 앞으로도 이 책임에서 벗어날 길은 결코 없을 것입니다.


[韓日協定, 何が問題なのか] ④ 

言われてみると、韓日協定の論議でサンフランシスコ講和条約の性格を把握することが、実に大事になってくる気がします。 

ところで韓日協定に対して問題を提起すると、この条約を取り上げながら“"国際法"も知らないのか”という話も聞こえてきたりします。私たちが国際法も知らないし、守ることもできないという主張でしょう。このことは合っていますか? 

いいえ、そうではありません。 
もう一度強調いたしますが、私たちはサンフランシスコ講和条約の署名当事者、署名当事国ではないので、私たちに負荷させられた義務や強制条項はありません。日本が放棄しなければならない権利、日本が責任を取らなければならない義務があるだけです。署名当事者、署名当事国間の国際法にすぎないのです。私たちは必要な部分だけ根拠や参考事項にすればいいのです。私たちが受けいれられないことは受けいれない権利が自動的にあるのです。

そのうえこの条約は、私たちとしては到底受けいれられない内容を秘めています。

(5-1) え?それはどういうことですか? 
サンフランシスコ講和条約は、韓国を植民地から"解放"された国としてではなく、日本から"分離(seperation)"された地域として取り扱いました。 

“解放された地域”と"分離された地域"の区別は実に重要なことです。韓国は、日本が不法的に強占して得た植民地ではなく、朝鮮と日本の間で併合条約を締結して国際法的に正当に取得した領土なので、敗戦でその権利が放棄されて、日本の国家から分離しないといけない地域という論理です。日本の思う壺です。 

戦勝国が自分たちに浴びせた戦争被害責任は、日本に問いただすとして、植民地賠償の問題を伏せてあげるという方法で処理したのです。ここから正当な韓日関係ではなくなっていきます。

(5-2) あまりにも酷いじゃないですか。 

そのとおりです。私たちの立場では実に不当な条約です。今でも腹が立って必ず問いただしたい内容です。この責任は第一にこの条約を作ったアメリカにあります。

そのうえ、私たちよりも後に政府を樹立した日本(1952年)が、先に政府を樹立した韓国(1948年)の独立を承認するということは話にならない条項です。(第2条(a))
こうなると私たちは1948年ではなく、1952年日本の承認によって独立したことになります。
こんな条約をどうして私たちが受け入れないといけないのでしょうか?批判と糾弾の対象でしょう。 

1952年第1次会談当初、韓国側の代表団もまさにこの問題を提起しました。あきれ果てて言葉もでなかったことでしょう! 

(5-3)国際法に対して新たに考えるようになりました。 

えぇ、そうですよね。 
日本は、植民地処理問題が明らかでないサンフランシスコ講和条約が、韓日関係を整理するのに自分たちにとって有利だから、国際法という主張でこれを根拠に私たちに詰め寄ってきたのです。 

このことに関連した韓国国内の保守系マスメディアや、一部の知識人たちの"国際法云々"という主張も国際法が何なのかきちんとわかっていない無知な発言にしかすぎないのです。

(5-4)それならばサンフランシスコ講和条約の基本的な性格と本質はどういうことになるのでしょうか? 

サンフランシスコ講和条約は互いに戦争をした国々が、戦勝国と敗戦国間の関係を整理する条約です。一つの体制、言いかえると"戦後秩序"といえます。敗戦国である日本を含めた旧帝国主義国家間の植民地処理問題はきちんと精査し、あいまいに終わってはならないものです。

人類普遍の歴史的観点で見ても、サンフランシスコ講和条約は時代に逆行するものでした。

植民地の時代が終息するする時代に、最も重要な主題は"脱植民主義"作業です。この問題が含まれていない講和条約と戦後秩序は、当然のごとく問題を精査して提起することが妥当だということができます。 

この条約と秩序が日本の戦争責任を問うて、既存の権利を放棄させる戦後処理の機能を果たしたとしても、その秩序の植民主義的本質は克服されないといけません。

(5-5)どうすればいいのでしょうか? 
日本は今からでも一日も早く、韓半島全体に対する不法的な統治と植民地被害に対して、根本的謝罪とともに、1965年韓日協定体制で無理やり除外した清算の実際的な過程を踏まないといけません。これが答えです。きちんと解決しないと、これからもこの責任から決して抜け出すことができないでしょう。 


 

프레시안

 

(6) 우리에게 그토록 불리했던 샌프란시스코 조약은 일본에게 식민지 배상에 대해 면죄부를 준 셈이니 일본으로서는 좋아했겠어요. 이걸 계기로 한일회담이 시작된 거라면 일본은 한일회담에 대한 준비도 그런 입장에서 했을 텐데, 두 가지 질문이 있어요.  

우선, 일본은 한국에 대해 어떤 태도로 회담에 임하게 되었을까하는 것과 어떻게 한일회담이 시작되었을까, 하는 거에요. 순서로 보면 두 번째 질문이 먼저가 되겠네요.

한일회담은 샌프란시스코 조약 체결된 뒤 미국이 주도적으로 나서서 시작됩니다. 1951년 9월 샌프란시스코 조약이 체결되고, 그해 10월부터 한일 예비회담이 열리고 1차 회담은 1952년 2월 15일부터 4월 21일까지 했어요. 그때 한국은 한국전쟁 중이었어요. 

어디서 했는가, 이것도 중요한데 일본 동경에서 열렸답니다. 일본에서 미군정을 책임졌던 연합군 최고사령부(GHQ: General Headquaters/SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers) 실제로는 미군 사령부가 있는 회의실에서 시작되었습니다. 회담 공식 언어도 영어였습니다. 

미국은 한일회담을 통해 한일관계가 샌프란시스코 조약이 만든 질서 안에 담기도록 하려한 것입니다.  

(6-1) 우린 샌프란시스코 조약의 서명 당사자가 아닌데 그게 어떻게 가능한 거지요?

바로 그 점입니다. 샌프란시스코 조약 서명 당사자가 아닌 한국을 샌프란시스코 체제에 포함시키는 작업, 이게 미국이 의도한 한일회담이었습니다. 거기서부터 기본적인 모순이 발생하게 됩니다.

우리는 배상문제를 비롯해 식민지 문제의 청산을 제기했지만 미국은 일본이 요구한 “재일조선인의 법적 지위문제”에만 국한해야 한다고 했습니다. 다른 문제는 거론하지 못하게 하려 했던 것입니다.

그러나 한국의 반발이 워낙 커지자 결국 의제가 확대됩니다. 본격회담이 시작되면서 미국은 빠지지만 예비회담에서는 참관인 명목으로 참가해 (윌리엄 시볼트 William Sebald 최고사령부 외교국장) 일본의 부담을 최소화하는 쪽으로 방향을 끌고 갔습니다.

(6-2) 미국은 아시아-태평양 전쟁에서 일본과 싸웠는데 왜 그런 거지요?

앞에서도 언급했지만 아시아 냉전체제의 구축이 샌프란시스코 조약의 기본 목적이었고 여기서 일본의 역할을 강화시켜 냉전수행기지로 만들고자 했기 때문입니다.

이른바 “역코스(reverse course)”라고 해서 일본의 파시즘 체제를 해체시키기 보다는 그 기반을 적극 활용해서 경제부흥을 통해 미국이 중심이 된 동아시아의 강력한 반공망(反共罔)을 만들고자 한 것이지요. 

친일세력을 청산하기 위한 한국의 반민특위법률 제정이 미군정에 의해 계속 가로 막혔던 역사도 모두 이런 미국의 세계정책에서 비롯된 것입니다. 한국은 샌프란시스코 체제에서 수직적으로 일본의 하위구조에 위치하도록 한 것이구요. 

우리는 경제적 재원이 절실한 상황이 여기에 얽혀 한일회담이 이 틀 안에서 시작되게 된 것입니다. 

(6-3) 의제를 “재일조선인 법적 지위문제”로만 국한시키려 한 것은 왜 그렇지요?

패전국 일본은 일본에 있는 재일 조선인/한인들을 부담으로 여긴 것입니다. 패전 직후 200만 명 가량이던 이들은 다수가 귀국 후 60만명 정도 남게 되었습니다. 전에는 법적으로 일본인이었으나 이제는 법적 책임을 지고 싶지 않은 집단이 된 셈입니다.  

미국으로서도 냉전체제 강화를 위해 일본의 입장을 편들고 나선 것이지요.

(6-4) 이 문제는 나중에 좀 더 자세히 설명해주시고, 회담에 임하는 일본의 한국에 대한 자세, 어떤 거였나요? 

중요한 대목만 짚어볼게요. 

1. 조선의 병합은 조약으로 적법하게 이루어졌다. 국제법적으로 정당한 취득이다.
2. 조선통치 시절 한국인의 경제, 문화생활은 향상되었다. 
3. 일본이 한국을 위한 통치를 했기 때문에 도리어 한국으로부터 받아 낼 것이 더 많다.

(6-5) 이건 혹시 지금 일본의 아베 정권도 여전히 가지고 있는 생각 아닌가요?

겉으로 내놓고는 그러지 못하지요. 그간 여러 총리들이 식민지 지배 피해에 대한 인정과 사과를 하기도 했으니까요. 그 사과라는 것도 “법적 책임”은 한사코 인정하지 않았습니다. 

일본의 우익은 한국의 식민지 지배가 정당했다는 생각에서 벗어나고 있지 않습니다. 이들의 역사교과서에는 바로 그런 생각이 담겨 있으니까요. 한국의 이른바 뉴라이트 식민지 근대사관도 이와 다르지 않습니다. 

바로 이러한 일본의 한국에 대한 인식은 이후 제3차 회담(1953년 10월)을 중단시킨 일본측 회담 대표 구보타 간이치로(久保田貫一郞)의 저 악명 높은 망언으로 정점을 이룹니다.

 

▲'구보타 망언'의 주인공, 구보타 간이치로

(6-6) 구보타가 무슨 이야기를 한 건가요? 

- 한국에 대한 일본의 주권 포기를 명시한 샌프란시스코 조약 체결 이전에 수립된 한국정부는 불법적 존재다. 
- 일본의 한국 통치는 한국에게 유익했다. 철도시설, 항만건설, 자본투자 증가 등이 예이다.
- 일본이 아니었다면 한국은 중국이나 러시아가 지배했을 것이다. 그건 더 나쁜 상황이다.
- 카이로 선언이 한국민족은 일본치하에서 “노예상태”라고 한 것은 연합군이 전시(戰時) 히스테리 상황에 있었기 때문이다. 
- 한국을 통치한 미군정이 일본의 재산을 한국에게 넘겨 준 것도 국제법 위반이다.

이 가운데 일본의 조선에 대한 식민지 지배가 조선에게 유익했다고 한 발언은 그야말로 엄청난 반발을 가져왔고, 결국 제3차 회담은 무산되고 말았습니다. 요시다 총리가 일본이 더 받을 게 있다는 이른바 “역청구권(逆請求權) 논리”를 관철시키려 했던 시기의 문제였습니다. 

(6-7) 일본에서는 어땠나요? 

일본 외무성도 구보타의 발언을 옹호했고, 여당과 야당도 이를 지지했고 언론도 이의를 제기하지 않았습니다. 일본 전체의 의식이었던 것입니다. 

이로써 제4차 회담은 4년 뒤인 1958년이 되어서야 비로소 열리게 됩니다. 지금 우리가 겪고 있는 일본의 한국 대법원 강제징용 판결 부정은 바로 이런 생각의 연장선에 있는 것입니다. (계속)


[韓日協定、何が問題なのか?] ⑤ 

(6)私たちにそれほどまでに不利だったサンフランシスコ条約は、日本に植民地賠償に対して、免罪符を与えたことになるので日本として有り難かったでしょう。
このことを契機に韓日会談が始まったとしたら日本は韓日会談に対する準備もそのような立場でしたはずなのですが、ここで二つの質問があります。 

まず、日本は韓国に対してどのような態度で会談に臨むようになったのかということと、どのようにして韓日会談が始まったのかということです。順番で見ると2番目の質問が先ですね。

ー韓日会談はサンフランシコ条約締結後、アメリカが主導的になって始まったものです。1951年9月サンフランシスコ条約が締結して、その年の10月から韓日予備会談があり、1次会談は1952年2月15日から4月21日まで行われました。その時韓国は韓国戦争中でした。

どこで行ったのか、このことも重要で、 
日本の東京で行ったということです。
日本で米軍政を任されていた 
連合軍の最高司令部 (GHQ: General Headquaters/SCAP:Supreme Commander for the Allied Powers) 
実際には米軍司令部がいる会議室で始まりました。
会談の公式言語も英語でした。 
米軍は韓日会談を通して韓日関係を
サンフランシスコ条約が作った秩序の中に入れようとしたのです。

(6-1)私たちはサンフランシスコ条約の署名当事者ではないのに、どうしてそのようなことが可能なのですか? 

ーまさにその点です。 
サンフランシスコ条約の署名当事者ではない韓国をサンフランシスコ体制に包括させる作業、このことがアメリカが意図した韓日会談でした。そこから基本的な矛盾が生まれていきました。
私たちは賠償問題をはじめ植民地問題の清算を提起しましたが、アメリカは日本が要求した”在日朝鮮人の法的地位問題”にだけ限局しないといけないと言いました、
違う問題は議論できないようにしようとしたのです。 

しかし韓国の反発が思いのほか大きくなった結果、議題が拡大されました。
本格的な会談が始まるとアメリカは抜けましたが、予備会談では参観という名目で参加し、
(ウィリアムシーボルド最高司令部外交局長) 
日本の負担を最小化する方に舵をきりました。

(6-2)アメリカはアジア-太平洋戦争で日本と戦ったのですが、どういうことですか?

ー前にも触れましたが、アジア冷戦体制の構築がサンフランシスコ条約の基本目的であり、ここで日本の役割を強化して、冷戦遂行基地に作ろうとしたからです。

いわゆる”逆コース(reverse course)”といって、日本のファシズム体制を解消するといったことよりも、その基盤を積極的に活用して経済復興を通して、アメリカが中心となる
東アジアの強力な反共網を作ろうとしたのです。 
親日勢力を清算するための韓国の反民特委法律制定(反民族行為特別調査委員会)が、米軍政によりなかなか進まなかった歴史も、全てこのようなアメリカの世界政策から始まります。韓国はサンフランシスコ体制で守職的に日本の下位に位置するようにしたのです。

私たちは経済的財源が切実な状況だったこともあって、韓日会談がこの枠の中で始まることになるのです。 

(6-3) 議題を”在日朝鮮人法的地位問題”にだけ限局しようとしたのはなぜですか?

ー敗戦国日本は、日本にいる在日朝鮮人/韓国人を負担に思ったからです。
敗戦直後、200万名ほどの在日日朝鮮人/韓国人の多数が帰国した後、60万名ほどが残りました。以前は法的に日本人だったのですが、今や法的責任を取りたくない集団になってしまったということです。アメリカとしても冷戦体制強化のために日本の味方になったということでしょう。 

(6-4) この問題はあとで、もう少し詳細に説明していただくとして、会談に臨む日本の韓国に対する姿勢はどうでしたか? 

ー重要な項目だけ取り上げてみますね。 
1. 朝鮮の併合は条約として適法に成された。国際法的に正当な取得である。
2. 朝鮮統治時代、韓国人の経済・文化生活は向上した。 
3. 日本が韓国のための統治をしたために、むしろ韓国から受け取るものがもっと多い。

(6-5) これはもしかして、今の日本の安倍政権も今も持っている考えではないのですか?

ー表には出せないでしょう。 
この間、いろんな総理たちが植民地支配被害に対して認定と謝罪をしたりもしましたから。その謝罪というのも”法的責任”は決して認めませんでした。日本の右翼は韓国の植民地支配が正当だったという考えから抜け出そうとしていません。 
彼らの歴史教科書には、まさにそんな考えが反映していますから。韓国のいわゆるニューライト植民地近代史観もこれと変りません。 

まさにこのような日本の韓国に対する認識は 
以降第3次会談(1953年10月)を中断させた
日本側会談代表、久保田貫一郎のあの悪名高い妄言が頂点に達します。

(6-6) 久保田がどんな話をしたのですか? 

ー韓国に対する日本の主権放棄を明示したサンフランシスコ条約締結以前に樹立された韓国政府は、不法的存在だ。 
ー日本の韓国統治は、韓国にとって有益だった。鉄道施設、港湾建設、資本投資増加等が例だ。
ー日本でなかったら、韓国は中国やロシアが支配していた。その方がもっと悪い状況だ。
ーカイロ宣言で韓国民族が日本統治下で”奴隷状態”としたのは、連合軍が戦時ヒステリー状況(戦争の時期の興奮状態)にあったからです。 
ー韓国を統治した米軍政が、日本の財産を韓国に戻したことも国際法違反だ。

その中で、日本の朝鮮に対する植民地支配が朝鮮にとって有益だったという発言は、まさに多大な反発を呼び、結局第3次会談は白紙に戻ってしまいました。
吉田総理が日本が貰うものがあるという、いわゆる逆請求権論理を貫徹しようとした時期の問題でした。 

(6-7) 日本ではどうだったんですか? 

ー日本の外務省も久保田の発言を擁護し、与党も野党もこれを支持し、メディアも意義を問なえませんでした。日本全体の意識であったのです。 

このように、第4次会談は4年後の1958年になってようやく開くことができました。
今、私たちが受けている日本の韓国大法院強制徴用判決否定は、まさにこの考えの延長線上にあるのです。 


 

프레시안

 

(7) 결국 일본은 조선에 대한 식민지 지배가 국제법적으로 합법이었다, 이걸 출발점으로 해서 회담에 임했다는 거니까, 우리와 일본은 입장이나 자세가 완전히 극과 극이었군요.

그렇지요. 그래서 두 나라의 “기본관계”를 어떻게 설정하는가가 매우 본질적인 문제가 됩니다. 가해자와 피해자가 아닌, 그냥 두 나라로 설정하면 도무지 풀리지 않는 문제들이 계속 쏟아져 나오게 마련이지요. 

일본은 자신의 가해사실을 역사적으로 기록하는 걸 거부했고 우리는 그걸 기점으로 회담을 하려한 것입니다. 

그래서 1차 회담 당시 우리는 “기본관계”라는 말을 주장했고 일본은 “우호관계”라는 말을 내세웠답니다. 이 말이 얼핏 그럴싸하게 들리지만 식민지 지배 역사를 청산하는 문제를 담지 않으려 한 것이지요.  

(7-1) 하지만 샌프란시스코 조약 체제 안에서는 식민지 배상 문제가 제기되기 어렵게 되어 있다고 했잖아요. 

네, 그러니까 남은 것은 채무 관계를 정리하는 청구권 논쟁이었어요. 그렇기 때문에 샌프란시스코 조약에 근거한 회담은 청구권 협정에 한 한 것이고 식민지 배상, 전쟁배상은 따로 정리해야 하는 것이라는 인식이 필요합니다. 전쟁배상도 교전국으로서의 배상요구, 중일전쟁과 태평양 전쟁 당시의 피해가 포함되는 것입니다.  

1965년 한일협정은 단지 청구권 논의에만 국한 한 것입니다. 정확히 따지면 일본은 우리에게 아직도 갚아야 할 빚이 엄청나게 있는 겁니다. 2012년과 2018년 대법원의 강제징용 관련 판결이 바로 이 문제를 거론한 거에요.  

(7-3) 대법원 판결 문제는 나중에 좀 더 자세히 말씀해주셨으면 해요. 근데 일본은 청구권 논의도 나중엔 하려 들지 않았다면서요? 이게 무슨 말인가 잘 이해가 가지 않아서요.

그렇습니다. 이게 무슨 말인가 싶지만 애초에는 청구권 논쟁으로 자기도 받아낼 게 있다고 역청구권 개념을 가져와 돈 문제를 상쇄하는 방식으로 마무리 하려 했어요. 그러다 이게 되지 않자 요시다 시게루 정권 이후 기시 노부스케 정권에서는 “역청구권 포기”로 정리합니다. 

그리고는 아예 청구권이라는 용어 자체를 쓰지 않고 경제협력이네, 독립 축하금이네 하는 식으로 방향을 몰고 가려 하지요. 

 

▲ 아베 신조 총리의 외조부, 기시 노부스케 전 총리, 세계2차대전 A급 전범이다.

(7-4) 아, 복잡하네요. 그것도 1차에서 7차에 이르는 회담을 정리할 때 다시 설명 부탁드립니다. 하나 또 궁금해지는 건, 회담이 시작되었던 시기에 일본 정부나 일본 여론이 거의 모두 식민지 지배에 대한 합법성, 한일합병이 정당했다, 그렇게 여겼다는데 그래도 일본 파시즘에 맞서서 반전운동을 했거나 조선의 독립을 지지했던 일본 사람들도 있지 않았나요? 좀 중구난방으로 질문 드려 죄송합니다. 

무슨 요, 생각나는 건 그때 마다 하셔도 됩니다. 조선의 독립운동을 지지했던 일본사람들이라, 네, 있었지요. 무엇보다도 우선 일본 공산당이었습니다. 그러나 이들의 목소리는 미국의 냉전정책이 강화되면서 배제되었고 일본의 미군정 당국에 의해 묵살되고 말았습니다.

(7-5) 아. 조금 조심스러워지네요. “공산당”이라고 하니까. 

- 그럴 거에요. 그러나 일본 공산당의 역사를 알면 생각이 달라질 수 있습니다. 이들은 전쟁 시기에 "일본 제국주의 타도와 피압박 민족 해방”을 주장했습니다.  

(7-6) 1945년 이후는 어떻게 입장을 표명했나요?  

패전 이후 일본 공산당은 천황제 지배에 대해 철저하게 비판적이었습니다. 천황제가 일본의 민주주의의 걸림돌이고 식민지 해방의 최대의 장애라고 밝혔습니다. 

이 대목은 매우 중요합니다. 천황제 비판논쟁은 일본 정치의 아킬레스 건이에요. 이와 함께 일본 공산당은 
민족차별을 반대했고 재일 조선인/한인들의 권리를 보호해야 한다고 주장했습니다.

(7-7) 당시 일본 사회 안에 그런 목소리가 있었다는 것은 알지 못했고 지금으로서도 놀랍기만 합니다. 

당시 재일 조선인들을 해방이 되었다고 으쓱거리면서 일본 사회를 불안하게 하는 폭도라면서 요시다 정부의 차별과 핍박이 강화되자 일본 공산당 중의원 하야시 하쿠로(林白郞)는 이렇게 말합니다.

“요시다 정부와 경찰이야 말로 폭도다. 일본 국민은 조국의 통일과 독립을 위해 나섰던 조선 인민의 투쟁에 대해 오히려 깊은 경의를 가지고 있다.“ 

(7-8) 일본 공산당은 아니지만 지금도 이런 생각, 의식을 가진 일본 사람도 있겠지요?

네, 있습니다. 일본의 반핵평화운동을 하는 여러 시민운동가들이 바로 그런 분들입니다. 반 아베 운동을 하면서 일본의 평화헌법을 지켜나가려는 사람들입니다. 오늘날 우리가 함께 손을 잡고 나갈 분들이지요. 


[韓日協定, 何が問題なのか] ⑥ 

(7)結局日本は、朝鮮に対する植民地支配が国際法的に合法だったという立場を出発点として会談に臨んだということなので、私たちと日本は立場や姿勢が完全に正反対だったのですね。

ーそうです。 
従って二つの国の”基本関係”を、どうのように設定するのかが、非常に本質的な問題になります。加害者と被害者ではない、単なる二つの国の問題として設定すると、到底解明出来ない問題が次から次へと当然のごとく出てくるものです。 
日本は自分の加害事実を歴史的に記録することを拒否し、私たちはそれを起点に会談をしようとしたのです。 

それで1次会談当時、私たちは”基本関係”という言葉を主張し、日本は”友好関係”という言葉を打ち出したそうです。 
この言葉は一見するともっともらしく聞こえますが、植民地支配歴史を精算する問題を含まないようにしようとしたのです。 

(7-1)しかし、サンフランシスコ講和条約体制の中では植民地賠償問題を提起するのが難しくなっていると言っていたじゃないですか。 

ーえぇ、なので残るは、財務関係を整理する請求権の論争でした。従ってサンフランシスコ講和条約に基づいた会談は、請求権協定に限局したものであること、植民地賠償、戦争賠償は別に整理しなければならないことだという認識が必要です。戦争賠償も交戦国としての賠償要求、中日戦争と太平洋戦争当時の被害が含まれるものです。 

1965年韓日協定は、単に請求権論議だけに限定したものでした。正確にいうと、日本は私たちに未だ払わないといけない借金が膨大にあるのです。 
2012年2018年大法院の強制徴用の関連判決が、まさにこの問題を取り上げたものです。

 (7-3)大法院判決問題は後にもう少し詳しくお話しして頂ければと思います。ところで日本は請求権論議も後に取り上げようとしなかったそうですが。これはどういうことなのか理解に苦しみました。 

ーそうです。これはどういうことかと思いましたが、最初は請求権論争として、自分たちも貰うものがあるという逆請求概念で持って、お金の問題を相殺するやり方で終わらせようとしました。しかしこのことが無理だと分かると、吉田茂政権以降の岸信介政権では”逆請求権放棄”として整理します。それからは全く請求権という用語そのものを使わず、経済協力やら独立祝賀金やらという形に歪曲しようとするのです。 

(7-4) あぁ、複雑ですね。 
そのことも1次から7次に至るまでの会談を整理する時に、再度整理お願いします。

もう一つ気になってくる事が。 
会談が始まった時に、日本政府や日本の世論のほとんど全てが植民地支配に対する合法性、韓日併合が正当であったと思ったということですが、それでも日本のファシズムに対して反戦運動をしたり、朝鮮の独立を支持した日本人たちはいなかったのでしょうか?
少し取り留めのない質問で申し訳ございません。 

ーとんでもないです。 
思いついたことをその時々に質問してもらって結構です。

朝鮮の独立運動を支持した日本人たちですか、えぇ、いたでしょう。
何よりもまず日本の共産党でした。しかし彼らの声はアメリカの冷戦状態が強化される中で排除され、日本の米軍政当局により黙殺されてしまいました。 

(7-5) あ、少し慎重になってしまいますね。"共産党"というのだから。

ーそうでしょうね。 
しかし日本共産党の歴史を分かれば、考えが変わってきます。彼らは戦争の時期に”日本帝国主義打倒と非圧迫民族解放”を主張しました。 

(7-6) 1945年以降はどのように立場を表明したのですか? 
ー敗戦後日本共産党は、天皇制支配に対して徹底的に批判的でした。天皇制が日本の民主主義の足かせであり、植民地解放の最大の障害だと明らかにしました。

この部分は非常に重要なことです。 
天皇制批判論争は日本政治のアキレス腱です。

このように日本共産党は民族差別に反対し、在日朝鮮人/韓国人の権利を保護しなければならないと主張したのです。 

(7-7) 当時日本の社会の中でそんな声があったということは知る由もなく、今でも驚くべきことであったりします。 

当時日本政府は、解放されたからと偉ぶってる在日朝鮮人たちを、日本社会の治安を乱す暴徒だと位置付けて、吉田政府の差別と迫害が強化されると、日本共産党衆議院林白郎は次のように言いました。 
"吉田政府と警察こそが暴徒だ。日本の国民は、祖国の統一と独立のために戦う朝鮮人民の闘争に対し、むしろ深い敬意を抱いている" 

(7-8)日本共産党ではなくとも、今でもこのような考え、意識を持った日本人もいるのでしょう?
ーえぇ、いらっしゃいます。 
日本の反核平和運動をするさまざまな市民運動家たちがまさにそのような人たちです。反安倍運動をしながら、日本の平和憲法を守ろうとする人たちです。今日、私たちと共に手を携えて行く人たちなのです。 


 

프레시안

 

(8) 한일협정 문제를 공부하다보니 샌프란시스코 조약이 참 중요하다는 건 거듭 거듭 깨닫게 되었어요. 그런데 식민지였던 나라의 피해는 승전국들인 연합국이 이래라 저래라 할 문제는 아니잖아요?

그렇지요. 그래서 우리의 입장에서는 일본의 대한(對韓) 청구권 포기와 협정을 통한 청구권 해결이라는 샌프란시스코 조약이 발생시킨 권리도 있지만 명시되지 않은 권리, 그러니까 식민지 배상, 전쟁 배상에 대한 권리가 여전히 존재한다는 이야기를 한 것입니다. 

명시되지 않았다고 해서 그 권리가 없다는 것은 아니지요. 일본사회에도 이 문제에 대한 진실을 알릴 필요가 있습니다. 그래야 문제가 풀리는 출발점이 생겨납니다.

(8-1) 하지만 1965년 한일협정에서 청구권 문제는 다 해결된 걸로 되어 있지 않나요? 게다가 당시 일본이 가진 외화보유고 20퍼센트에 해당하는 거액인 5억 달러나 이미 주었는데, 왜 자꾸 더 달라고 하느냐? 이런 문제가 제기되어서 말입니다. 

이러니 자꾸 말할 수밖에 없는데 1965년 한일협정에서 다루어진 청구권은 채무, 변제 관련 사안들입니다. 자세한 내용은 1965년 한일협정을 다룰 때 하기로 하고, 식민지 지배 시기 피해 전반에 걸친 배상 문제는 누락된 것입니다.  

1차 회담 때에도 우리가 요구한 것은 향후 관계를 생각해서 식민지 피해 배상 전체가 아니라 중일전쟁, 태평양 전쟁시기의 피해배상으로 최소화시킨 것입니다. 이 정도도 일본은 결국 응하지 않았습니다. 

더군다나 5억 달라 지불의 내용은 협정문에 명기되어 있듯이 돈이 아니라 “3억 달러 가치에 해당하는 일본국의 생산물과 용역”의 무상제공이고 2억 달러는 “장기처리 차관”입니다. 이자내고 빌려오는 빚입니다. 이 두 가지 종류의 지불도 무려 10년으로 나누어 하는 것입니다.

백보양보해서 청구권으로만 한정시켜 봐도 그 액수가 3억 달러에 불과하고 그 내용도 이미 말했듯이 식민지 지배 불법성에 기인한 배상이나 중일전쟁과 태평양 전쟁 배상이 제외되어 있습니다.

다시 강조합니다만 2012년과 2018년 강제징용 관련 대법원 판결은 이런 문제를 법적으로 정확히 제기한 매우 중요한 역사적 판결입니다. 

(8-2) 그러니까 실제로는 3억 달러가 무상으로 지불한 것이고 2억은 빚으로 빌려준 거군요. 무상 지불 3억 달러도 돈이 아니라 일본의 생산물과 용역이라면 결국 일본 시장의 확대가 이루어진 셈이네요.  

그래서 1965년 한일협정에 대한 반대가 그리도 강렬했던 것입니다. 당시 한일 협정을 반대했던 사람들은 식민지 지배의 불법성을 명확히 하지 않아 굴욕적이고 일본경제에 종속되는 길을 연다고 비판한 것입니다. 본질을 정확히 내다 본 것이지요.    

일본은 당시 한국전쟁 이후 전쟁 특수로 성장한 경제의 구조 재편의 과정에 들어갔고 낡은 경제 시스템의 이전과 시장 확대라는 두 가지 문제를 해결해야 했습니다. 이걸 한국에서 한일협정을 통해 “경제협력”이라는 명목으로 처리하려 든 것입니다. 

이 액수를 한국이 가져오는 방식도 일본에게 경제개발계획을 보이고 협의과정을 거쳐 승인을 얻어 그 내용을 가지고 생산물과 용역이 제공되는 방식이어서 “내정간섭과 시장장악”이라는 문제를 근본적으로 안고 있었습니다. 

한국과 일본의 “수직적인 국제 분업체계”가 만들어지게 된 것이지요. 오늘날 한국에 대한 일본의 이른바 “화이트 리스트 배제”가 경제적 타격을 줄 가능성이 생긴 구조적 원인이 여기에 있습니다. 일본의 입장에서는 자본의 논리에 따른 대외진출이 가능해진 것입니다.

(8-3) 일본의 입장에서는 대단히 유리했던 협정이었군요. 

그렇지요. 1965년 한일협정체제가 당시 정치적 정통성 문제 때문에 경제문제 해결이 급했던 박정희 정권에 의해 내부의 반대를 억압하고 작동했던 1965년에서 1980년까지만 계산해봐도 일본은 13억 달러를 한국에 투입한 반면, 205억 달러의 무역흑자를 기록했습니다. 

일본이 마치 시혜를 베풀 듯이 돈을 엄청 주고 과거사에 대한 책임이 청산되었다는 식으로 말하는 것은 언어도단(言語道斷)이지요. 

(8-4) 그렇다고 해도 여전히 남는 의문이 있습니다. 

1965년 한일협정의 “청구권, 경제협력에 관한 협정” 제 2조 1항에 “양국 국가 및 그 국민의 재산, 권리 및 이익과 양 체약국 및 그 국민 간의 청구권에 관한 문제가 1951년 샌프란시스코 조약에 규정된 것을 포함해 완전히 그리고 최종적으로 해결 된 것이 된다는 것을 확인한다“로 되어 있지 않나요? 

의문이 제기될 법합니다. 그런데 중요하게 주목해야 할 바가 하나 있습니다. 한일협정에는 “기본관계에 대한 조약”이 포함되어 있는데 한국과 일본이 이 협정을 체결하는 입장과 관계가 담겨진 문서입니다. 이 조약에는 식민지 지배의 불법성 관련 내용이 없습니다.“양국 국민 관계의 역사적 배경”이라는 말로 두리뭉실 넘어갔습니다. 

따라서 당시로서는 일단 일본은 식민지 지배 피해 문제를 비켜가면서 조약 체결의 타결점을 찾았지만 식민지 지배의 불법성 관련 문제를 제기할 수 있는 여지가 남게 된 것입니다.

따라서 이 문제를 제기하는 것은 협정 위반이 아니라 협정이 다루지 않고 누락시킨 것을 제기하는 것이며 이 조약 그 어디에도 식민지 피해문제를 영원히 제기할 수 없다고 명시되어 있지 않습니다. 그 문제를 제기하는 것은 어디까지나 식민지 지배의 피해를 입은 우리의 당연한 권리입니다.

“완전히 그리고 최종적으로 해결된 것”은 변제와 채무관련 사안뿐입니다. 이 마저도 엄청나게 부족한 액수입니다. 식민지 지배의 불법성에 기인한 피해는 이 조약 범위 밖의 것입니다.

한일협정은 따라서 강제징용 피해 문제를 해결하지 않았습니다. 

(8-5) 이제 2012년과 2018년 강제징용 관련 대법원 판결의 취지를 이해할 수 있을 것 같아요.

네, 판결의 취지를 요약해드릴게요. 

"청구권 협정 과정에서 일본정부는 식민지배의 불법성을 인정하지 않았다. 이런 입장을 가지고 강제 동원 피해의 법적 배상을 원천적으로 부인했다. 따라서 그 당시 협정을 통해 한국과 일본 정부는 한반도 지배의 성격에 대해 합의에 이르지 못했고 이런 상황에서 일본의 국가권력이 관여한 반인도적 불법행위나 식민지배와 직결된 불법행위로 인한 손해배상 청구권이 청구권 협정의 적용대상에 포함되어 있다고 보기 어렵다. 

따라서 개인 청구권도 소멸하지 않았고 피해 국민에 대한 대한민국의 외교적 보호권도 포기되지 않았다." 

(8-6) 내용이 명확하게 들어옵니다. 식민지 지배 불법성에 대한 주권국가의 명확한 선언이군요. 국제법적으로도 의미 있는 선례가 만들어질 근거가 되었다는 생각이 듭니다.

생각이 많이 진전되셨군요. 그러니 일본의 아베가 한국이 협정을 위반했다고 말하는 건 본질적으로는 한국의 정당한 권리를 부인하는 것이자 논리적으로는 위반을 따질 수 있는 내용이 애초부터 없는 것을 가지고 위반이다 뭐다 말이 되지 않는 시비를 건 것입니다.

형법 문제를 다루고 있는데 상법을 가지고 와서 조항 위반이라고 하는 식입니다. 민사와 형사를 구별하지 못하는 격입니다. 결국 아베는 역사와 현실의 법정에서 패소하고 말 겁니다.(계속)

【韓日問題、何が問題なのか】⑦ 

(8) 韓日協定の問題を学んでいくと、サンフランシスコ講和条約が非常に重要だということに繰り返し繰り返し気づかされます。ところで植民地だった国の被害は、戦勝国である連合国があれこれいう問題じゃないじゃないですか? 

ーその通りです。 
従って私たちの立場では、日本に対する請求権放棄と韓日協定を通した請求権の解決というサンフランシスコ講和条約が発生させた権利もありますが、明示されていない権利ーすなわち植民地賠償、戦争賠償に対する権利がいまだに存在するということなのです。明示されていないからといって、その権利がないということではないのです。日本社会にもこの問題の真実を知らせる必要があります。そうすることで両国が問題の出発点に立つ事が出来るのです。

(8-1)しかし1965年韓日協定で請求権問題は全て解決したことになっているのではないでしょうか?  

そのうえ当時日本は、日本が所有していた20%にあたる多額な5億ドルの資金をすでに韓国に渡したのに、なぜ何度も繰り返し請求しようとするのでしょうか?この問題が提起される時に言われることです。 

ーだから何度も同じことを繰り返さないといけませんが、1965年韓日協定で取り扱われた請求権は、債務、弁済の関連事案等です。詳しい内容は、1965年の韓日協定についての項で述べますが、韓日協定において植民地支配の時期の被害全般の賠償問題が抜け落ちた事が問題なのです。

1次会談の時も私たちが要求したことは、今後の関係を考えて植民地被害賠償全般ではなく、中日戦争、太平洋戦争の時期の被害賠償 として最小化した内容でありました。しかしこの程度であっても日本は結局応じることはありませんでした。 

おまけに5億ドル支払いの内訳は、協定文に明記されているように、現金ではなく“3億ドルの価値に該当する日本国の生産物と用役”の無償提供であり、2億ドルは“長期処理借款”でした。つまり利子を出して借りる借金です。この2種類の支払いも実に10年に分割して支払うということです。 

百歩譲って請求権だけに限定したとしても、その金額が3億ドルに過ぎず、その内容もすでに述べたような植民地支配不法性による賠償や中日戦争と太平洋戦争賠償が除外されています。

再度強調しますが、2012年と2018年の強制徴用関連大法院判決は、このような問題を法的に正確に提起した非常に重要な歴史的判決です。 

(8-2)従って実際は日本は韓国に対して、3億ドルを無償で支払ったということ、2億ドルは借金として貸したということですね。 

無償支払いの3億ドルも現金ではなく、日本の生産物と用役とするならば、結局のところ日本の市場拡大が成されたという訳ですね。 

ー それで、1965年韓日協定に対する反対運動があそこまで熾烈になったのです。
当時韓日協定に反対していた人たちは、植民地支配の不法性を明確にしないことは屈辱的で、日本経済に従属する道を歩むことになると批判しました。本質をしっかり捉えたということです。

日本は韓国戦争以降、戦争特需で成長した経済の構造再編の過程に突入し、古い経済システムの移転と市場拡大という二つの問題を解決しなければなりませんでした。これを韓国で韓日協定を利用して”経済協力”という名目で処理しようとしたのです。

日本がこの金額を韓国に提示した方法は、韓国が日本に経済開発計画を提示して、協議の上承認を得、その内容で持って生産物と用役で提供を受ける方法であって、“内政干渉と市場掌握”という問題を根幹に秘めていました。韓国と日本の“垂直的な国際分業体制”が形成されるようになったのです。 

今日、韓国に対する日本のいわゆる“ホワイトリスト排除”が経済的打撃を与える可能性が生じる構造的要因がここにあります。日本の立場としては資本の論理による対外進出が可能になったのです。 

(8-3)日本の立場としてかなり有利な協定だったのですね。 

ーその通りです。 
1965年韓日協定体制が、当時政治的正統性のために経済問題解決に急務であった朴正熙政権によって、内部の反対を抑圧して推し進めた1965年から1980年までだけでも計算すると、日本は13億ドルを韓国に投入した反面、205億ドルの貿易黒字を記録しました。日本がまるで韓国に恩恵を与えたかのように膨大なお金を与え、過去の歴史に対する責任が清算されたかのようにいうのは言語道断なのです。 

(8-4) そうは言っても未だに残る疑問があります。 
1965年の韓日協定の「請求権、経済協力に対する協定」第2条1項に「両国国家及びその国民の財産、權利及び利益と両締約国並びにその国民間の請求権に関する問題が、1951年サンフランシスコ条約に規定されたものを含み、完全且つ最終的に解決されたものとすることを確認する」となっているのではないですか? 

ー疑問に思って当然です。 
しかし重要な事として、注目しなければならない点が一つあります。

韓日協定では「基本関係に対する条約」が含まれていますが、韓国と日本がこの協定を締結する時の立場と関係が含まれた文書です。 

この条約には植民地支配の不法性と関連した内容がありません。「両国国民関係の歴史的背景」という言葉で曖昧にしました。 

従って当時としては、一旦日本は植民地支配被害問題を避けながら、条約締結の妥結点を探りましたが、植民地支配の不法性関連問題を提起することのできる余地が残ったということです。

従ってこの問題を提起することは協定違反ではなく、協定が扱わなかった抜け落ちたものを提起したもので、この条約のどこにも植民地支配被害問題を永遠に提起する事ができないと明示されていません。この問題を提起することはどこまでも、植民地支配の被害を受けた私たちの当然の権利なのです。 

「完全にそして最終的に解決されたもの」は弁済と債務関係事案だけです。それだけでも膨大に不足した金額です。植民地支配の不法性による被害はこの条約の範囲の外にあるのです。

従って韓日協定では強制徴用被害問題を解決しなかったのです。

(8-5)これで2012年と2018年の強制徴用関連大法院判決趣旨を理解できてきたようです。

ーそれでは改めて、判決の趣旨を要約しますね。 

「請求権協定過程で日本政府は植民地の不法性を認めなかった。このような立場でもって強制徴用被害の法的賠償を原則的に否認した。従ってその当時の協定を通じて、韓国と日本政府は韓半島支配の性格に対して合意を得ることはできず、このような状況の下では日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や、植民支配と直結した不法行為による損害賠償請求権が、請求権協定の適用対象に含まれていると見るのは難しい」 
「従って個人請求権も消滅せず、被害国民に対する大韓民国の外交的保護権も放棄には至らなかった」 
 
(8-6)内容がはっきりわかってきました。 
植民地支配不法性に対する主権国家の明確な宣言ですね。国際法的に意味のある先例になる根拠になったように思います。  

ー考えがかなり前進しましたね。 
従って日本の安倍が韓国が協定に違反したと言っていることは、本質的には韓国の正当な権利を否認することになり、論理的に違反などといった内容は最初からなく、違反だのどうのと言葉にならない是非を言い放っていたのです。 

刑法を取り扱っているのに、商法を持ってきて条項違反というやり方で。民事と刑法を区別できないレベルです。結局、安倍は歴史と現実の法廷で敗訴してしまうことでしょう。


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(9) 지금까지는 일단 중요한 쟁점과 역사에 대해 좀 알게 되었으니, 14년 동안의 한일회담이 어떤 흐름으로 진행되었는지 대략적으로나마 알고 싶네요. 

우선 시기로 보면 3차례의 단계가 있습니다.  

이승만 정권시기의 1차에서 4차까지 1단계, 그리고 중간의 장면 정권 때의 5차로 2단계, 그 이후 3단계는 박정희 집권시기의 6차에서 7차까지로 정리할 수 있습니다. 

그러나 장면정권은 단명해서 크게 보면 이승만과 박정희 정권 시기로 두 묶음이 됩니다.

(9-1) 연도별로도 정리해주실 수 있을까요?   

네, 우선 이승만 정권 시기를 연도로 정리하면 

1차 (1952년 2월 15일~1952년 4월 21일) 
2차 (1953년 4월 15일-1953년 7월 23일)
3차 (1953년 10월 6일~1953년 10월 21일) 
4차 (1958년 4월 15일~1960년 4월 15일)까지입니다.

날짜를 보면 아시겠지만 샌프란시스코 조약 체결과 한국전쟁 시기가 겹치는 시기부터 1960년 4월 19일 학생혁명 직전까지였습니다. 

3차에서 4차까지 시간이 4년 반이나 걸린 까닭은 이미 말씀드린 대로 “일본의 한국지배는 한국에게 은혜를 끼친 것이다”라는 구보타의 망언 때문에 3차 회담이 중단된 결과였습니다. 

4차 회담이 2년째 접어들어 한참 진행되던 1960년 4월에는 이승만 정권이 붕괴되어 회담은 중단될 수밖에 없었습니다. 

 

▲기시 노부스케와 박정희, 기시 노부스케는 아베 신조 일본 총리의 외조부다.

(9-2) 1단계 한일회담의 주요 논점은 어떤 것들이었나요? 

중요한 질문입니다. 일본은 재일 한인들의 법적 지위 문제와 어업문제에만 국한해서 회담을 진행하고 싶어 했습니다.  

그러나 결국 1. 두 나라의 기본관계, 2. 청구권 3. 어업문제, 4. 재일한인들의 법적 지위, 5. 문화재 반환 문제 등 이후 한일 회담이 다루게 된 문제의 기본 골격이 정해졌습니다. 

그리고 14년 동안 회담 내내, 그리고 지금까지도 가장 큰 쟁점이 되는 식민지 지배의 불법성 문제가 제기되는 의미를 갖게 됩니다.  

(9-3) 그 이후는 한일협정 타결과정으로 들어가는 시기가 되는 거지요?

네, 그렇습니다. 형식상 타결이기는 하지만 새로운 문제의 시작이었습니다. 한일협정 타결을 어떻게 평가할 것인가의 문제가 전면에 대두되는 시기였기 때문입니다.  

회담 과정과 협정 내용에 대해서 엄청난 비판이 쏟아졌습니다. 협정체결 과정 또한 민주적이지 않았습니다. 이 과정은 이후 박정희 정권이 어떤 정권이 될지를 보여주는 것이기도 했습니다. 반대세력을 무력진압으로 억압해서 정치를 하는 정부의 모습을 고스란히 보여주었던 것입니다.  

5차 회담(1960년 10월 25일~1961년 5월 15일)은 1961년 5월 16일 박정희의 군사쿠데타로 장면정권이 무너져 중단됩니다. 

6차는 1961년 10월 20일에서 1964년 4월까지 이르는 기간이었고 이 시기에 대대적인 한일회담 반대운동이 일어났습니다. 

이 3년 가까운 시기는 군사 쿠데타 세력의 민정이양(民政移讓) 약속 불이행, 이어지는 박정희의 공식적인 집권, 한일회담 내용에 대한 국내적 비판 등으로 정세가 불안정해져 회담 진행 자체가 간단치 않았습니다. 

이 와중에 1962년 10월 “김종필-오히라*”의 밀담이 이루어지면서 (*오히라 마사요시/大平正芳 당시 일본 외상) 한일협정 타결의 가닥이 잡힙니다. 이는 이후 그 내용이 알려져 엄청난 논란을 불러일으키게 됩니다.   

 

▲ 김종필-오히라 메모
▲김종필과 오히라

(9-4) 그 이전에도 한일회담에 대한 반대운동이 있었나요? 

아닙니다. 이승만과 장면 정권 시기에는 없었습니다. 그만큼 박정희 정권의 대일 협상 자세에 문제가 드러났고 그에 대해 지식인들을 비롯하여 4.19 혁명의 주체였던 학생세대의 문제의식이 날카로워졌던 것입니다.  

반대운동에 직면한 박정희 정권은 1964년 6월 3일 비상계엄을 선포하고 군대를 동원해서 반대운동을 진압하게 됩니다. 

1965년 한일협정 내용을 정리한 7차는 1964년 12월 3일에서 1965년 6월 22일까지입니다. 여기서 1965년 6월 22일은 한국과 일본이 조약을 조인한 날입니다.

박정희 정권은 국회에서 이 조약을 8월 14일 비준 통과시킵니다. 공화당 1당이 야당이 불참한 가운데 날치기 통과를 한 겁니다.  

비준 통과 이후에도 반대운동이 거세어지자 1965년 8월 26일에는 위수령(衛戍令)을 발동하고 역시 군대를 동원해 반대운동을 탄압했으며 대학은 휴교령 조처를 취했지요. 

(9-5) 한일회담의 다른 한 축인 일본의 정권은 어떤 흐름이었나요?

요시다 시게루(吉田茂)의 “역청구권” 논리가 회담을 난항에 이르게 한 시기, 이를 철회하고 식민지 관계 청산은 뒤로 한 채 경제협력에 중점을 두는 기시 노부스케(岸信介)의 정책 전환 시기, 이케다 하야토(池田勇人) 시기의 소극적 대응, 그리고 기시 노부스케의 친 동생인 사토 에이사쿠(佐藤榮作)가 다시 경제협력 개념을 중심으로 한 협정타결 시기라고 할 수 있습니다.

 

▲한일협정 반대 성토대회

(9-6) 일본에서는 한일협정에 대한 반대가 없었나요? 

당시 일본에서는 미국과의 군사관계를 강화하는 신 안보조약 체결에 반대하는 운동이 대대적으로 벌어졌습니다. 
이른바 “안보투쟁(安保鬪爭)”이었습니다. 미국, 일본, 한국이 하나로 엮어지는 군사체제에 대한 비판과 반대였지요. 

게다가 일본의 독점자본이 한국에 진출해서 일본 내에서 저임금 구조가 심화되는 것에 대한 우려가 있었습니다. 

(9-7) 그러니까 일본의 식민지 지배 문제는 제기되지 못했군요.

그렇습니다. 일본 내 안보투쟁의 한계라고 할 수 있었습니다. 식민지 지배에 대한 역사적 논쟁과 책임추궁, 희생자들에 대한 사죄와 반성은 보이지 않았습니다. 

결국 이러한 현실 속에서 한일협정은 식민지 지배에 대한 역사적 청산의 문제는 소멸해버리고 미국의 냉전체제에 한국과 일본이 하부구조로 결합하면서 경제적 관계를 수직적으로 수립하는 것에 역점을 두는 쪽으로 가버린 것입니다.  

(9-8) 미국의 역할은 어땠나요? 

나중에 좀 더 자세히 설명하겠습니다만 여기서 미국의 역할은 매우 결정적이라는 점, 기억해둘 필요가 있습니다. 

한일관계는 그때부터 지금까지 미국의 세계정책에 하위체계로 연동되어 있다는 점, 이걸 돌파하지 않고서는 정상적 관계를 만들기가 대단히 어렵습니다. 

그렇기 때문에 우리의 민족적 위상을 제대로 만들어낼 한반도의 냉전과 분단체제의 해소는 진정한 한일관계의 정상화와 동북아시아의 평화를 위해서 너무나도 중요합니다.

【韓日協定、何が問題なのか】⑧ 

(9)今までは一応重要な争点と歴史について少し理解できたので、14年の間の韓日会談がどのような流れで進んできたのか大枠でわかっておきたいですね。

ーまず時期で見ると、3つの段階があります。 

李承晩政権時期の1次から4次までの1段階、 
そして中間の張勉政権時期の5次の2段階、
その次の3段階は、朴正熙執権時期の6次から7次までに整理することができます。

しかし張勉政権は短命だったので、大きくは李承晩と朴正熙政権の2つの時期と見ることができます。 

(9-1)年度別に整理して頂いてよろしいでしょうか? 

ーまず李承晩政権時期を年度別に整理すると 
1次 (1952年2月15日~1952年4月21日)
2次 (1953年4月15日~1953年7月23日) 
3次 (1953年10月6日~1953年10月21日)
4次 (1958年4月15日~1960年4月15日)までです。 

日程を見るとおわかり頂けますが、サンフランシスコ講和条約締結と韓国戦争時期が重なる時期から1960年4月19日学生革命の直前の時期まででした。 

3次から4次まで4年半もかかった理由は、すでに述べたように”日本の韓国支配は、韓国に恩恵を与えたものだ”という久保田妄言のために3次会談が中断される結果に至りました。

4次会談が2年目に差し掛かり、しばらく経過した1960年4月には、李承晩政権が崩壊し会談は中断するしかなかったのです。 

(9-2)1段階の韓日会談の主要論点はどのような内容だったのですか?

ー重要な質問です。 
日本は在日韓国人たちの法的地位問題と漁業問題にだけ限局して、会談を進めたいようでした。
しかし結局 
1. 2国間の基本関係
2. 請求権 
3. 漁業問題
4. 在日韓国人たちの法的地位 
5. 文化財返還問題等
以降の韓日会談が取り扱う問題の基本骨格が定められていきました。

そして14年の間、会談中から現在に到るまで最大の争点になる植民地支配の不法性問題が、提起される意味を持つようになってきます。 

(9-3)それ以降韓日協定の妥結過程に入っていくのですね?

ーえぇ、そうです。 
形式上、妥結ということになるんですが、新しい問題の始まりとなりました。韓日協定妥結がどのように評価されるかという問題が前面に台頭する時期だったからです。

会談過程と協定内容について膨大な批判が殺到しました。協定締結過程もやはり民主的ではなかったのです。この過程はそれ以降の朴正熙政権がどのような政権になるかを見せつけるようなものでもありました。反対勢力を武力鎮圧で抑圧して政治を行う政府の姿をそっくりそのまま見せつけてくれるようなものでした。 

5次会談(1960年10月25日~1961年5月15日)は、1961年5月16日の朴正熙の軍事クーデターで張勉政権が崩壊し会談は中断されます。 

6次会談は1961年10月20日から1964年4月までの期間であり、この時期に大々的な韓日会談反対運動が起こりました。 

この3年近くは、軍事クーデター勢力の民政移譲の約束の不履行、続く朴正熙政権の公式的執権、韓日会談の内容に対する国内の批判等により、情勢が不安定化し、会談をすること自体が簡単ではなかったのです。 

この渦中の1962年10月「金鐘泌ー大平(大平正芳:当時の日本の外相)」密談が行われ韓日協定妥結の糸口をつかみます。 
これはその後その内容が広がると、非常に大きな波紋を呼び起こします。

(9-4)その前にも韓日会談に対する反対運動があったのですか?

ーいいえ、李承晩と張勉政権の時はありませんでした。それだけに朴正熙政権の対日交渉姿勢に問題があることが露呈し、それに対する知識人たちを始めとする4.19革命の主体であった学生世代の問題意識が鋭くなっていったのでした。 

反対運動に直面した朴正熙政権は、1964年6月3日非常戒厳令を宣布して、軍隊を動員して反対運動を鎮圧するようになります。 

1965年韓日協定の内容を整理した7次は、1964年12月3日から1965年6月22日までです。この1965年6月22日が、韓国と日本が韓日条約を調印した日となります。

朴正熙政権は国会で、この条約を8月14日に批准通過させます。共和党1党が野党が不参加のまま性急に通過させたのです。 

批准通過以降でも反対運動が激しくなると、1965年8月26日には衛戌令を発動して、ここでも軍隊を動員して反対運動を弾圧し、大学は休学令により休学という処置を取ったのです。

(9-5)韓日会談の相手側の日本の政権はどういう流れだったのですか?

ー吉田茂の「逆請求権」論理が会談を難航させた時期から、これを撤回し植民地関係精算は後回しにしたまま経済協力に重点をおく岸信介の政策転換時期、そして池田勇人時期の消極的な対応、岸信介の弟の佐藤栄作が再び経済協力概念を中心とした協定妥結時期へと進みました。

(9-6)日本では韓日運動に対する反対運動はなかったのでしょうか?

ー60年代当時日本では、アメリカとの軍事関係を強化する新安保条約締結に反対する運動が大々的に広がっていました。いわゆる”安保闘争”でした。アメリカ、日本、韓国が一つになる軍事体制に対する批判と反対運動だったのです。その運動の延長線上にベトナム戦争反対まで重なって韓日会談に対する激しい拒否感情がありました。 

そのうえ日本の独占資本が韓国に進出して、日本の国内で低賃金構造が深まることに対する憂慮がありました。 

(9-7)従って、日本の植民地支配問題が提起されなかったということですね。

ーそうです。日本国内の安保闘争の限界だと言えます。 
植民地支配に対する歴史的論争と責任追及、犠牲者たちに対する謝罪と反省は見られませんでした。 

結局このような現実の下、韓日協定での植民地支配による歴史的清算の問題は消滅してしまい、アメリカの冷戦体制に韓国と日本が下部構造として結合しながら、経済的関係を垂直的に樹立することに力点を置く方向へ行ってしまいました。 

(9-8)アメリカの役割はどうでしたか? 

ー後でもう少し詳細に説明しますが、ここでアメリカの役割が非常に決定的だという点を覚えておく必要があります。 

韓日関係はその時から今まで、アメリカの世界政策の下位構造に連動しているという点、これを突破しないことには正常な関係を築くのは非常に難しいのです。

従って、私たちの民族的位相を正しいものに作るためにも韓半島の冷戦と分断体制の解消は、真の韓日関係を正常化と東北アジアの平和のために極めて重要なことになるのです。


 

프레시안

 

(10) 한일회담의 첫 단추는 샌프란시스코 조약 체결과 맞물리면서 1951년 예비회담이라고 하셨는데, 한구의 입장에서는 일본에게 배상을 요구하자면 그 내용에 대한 준비가 있었을 텐데 그런 게 있었나요? 

네, 있었습니다. 미군정 시기에 이미 일본의 배상 없이는 남한의 경제 건설이 어렵다는 논의가 시작되었습니다. 이 말은 일본의 경제 지원이 없으면 한국 경제의 미래가 없다는 말이 아니라, 일본의 식민지배로 인해 피폐해진 현실에 대한 이야기입니다.  

1949년 작성된 '대일배상요구조서'는 바로 그런 논의와 요구의 결과물입니다. 1948년 정부가 수립되니까 이 문건은 우리 정부 최초의 배상요구 내용이 담긴 것입니다. 

(10-1) 그런 게 있었군요. 어떤 내용이 담겨 있는 가요? 

두 차례로 나눠 정리되었는데, 그렇게 된 까닭이 있습니다. 미국은 전쟁배상 논의는 제외시키고 “반환적 성격의 항목”만 일단 제출하라고 한 것입니다. 명확히 따지자면 배상이 아닌 거지요. 미국의 이런 지침에 따라 1949년 3월 1권이 만들어졌고, 그 안에는 현물반환과 확정채권에 대한 내용이 1부와 2부로 담겨 있습니다. 현물반환은 일본이 가져간 금 그리고 지금(地金)과 지은(地銀), 서적, 미술품과 골동품, 선박 등이고 확정채권은 유가증권, 보험금, 미수금 등이 포함된 내용입니다. 

그런데 미국은 한국의 배상 요구에 대해 선을 그었습니다. 샌프란시스코 강화조약 체결이 있기 전의 시기였다는 점에서 배상 논의는 그때 가서 “고려”할 수 있다는 반응을 보인 겁니다. 이미 일본에 대한 정책이 달라져 일본의 부담을 최소화하겠다는 방향이 결정되었기 때문입니다. 전에 언급했던 역코스(reverse course)에 따른 미국의 일방적 통고였습니다. 
  
(10-2) 한국정부로서는 너무 당혹스러웠겠어요.

그대로 물러서지 않았습니다. 상황이 절박했기 때문입니다.  

1권에 이은 속편을 정리합니다. 1949년 그해 9월에는 2권이 만들어집니다. 전쟁배상과 식민지 피해 일부 배상 요구가 담겨진 문건이었습니다. 

2권 역시도 1부와 2부로 나뉘어 있는데, 1부는 중일전쟁 및 태평양 전쟁에 기인한 인적, 물적 피해, 2부에는 일본정부의 저가수탈에 의한 손해, 그러니까 강제공출에 의한 피해를 담았습니다.  이 두 권의 '대일배상요구조서'는 이후 청구권 논의에서 매우 중요한 기초 자료가 되었다는 점에서 주목할 필요가 있습니다. 특히 “재일(在日)재산문제”는 대단히 첨예한 논쟁을 가져온 대목이기도 합니다. 

(10-3) “재일재산 문제”라니요? 

흔히 식민지 지배에 따른 피해라고 하면 한반도에 조성된 재산으로만 국한해서 생각하기 쉬운데, 재산의 소재는 일본이지만 귀속은 조선/한국이라는 논지에 따른 문제 제기입니다.

가령 조선은행, 조선척산은행, 조선신탁주식회사의 지점이 일본에 있었습니다. 거기에 있는 재산은 누구의 것으로 귀속되어야 하는가의 문제라고 할 수 있지요. 조선총독부의 동경 출장소 재산도 여기에 포함되어 논의되어야 한다는 것이 우리의 요구였습니다.  

이렇게 현물부터 전쟁배상에 이르기까지 다 계산해서 나온 액수가 당시의 환율로 치면 최소 24억 달러(1달러=15엔)에서 최고 75억 달러(1달러=4.35엔)에 달합니다. 이 액수의 차이는 일본 엔화를 어느 수준으로 평가하는가에 달려 있는 문제였습니다. 1965년 한일협정으로 정리된 차관을 뺀 3억 달러와 비교하면 그 사이의 환율변동을 고려해도 엄청난 차이가 되지요. 

(10-4) 이런 내용들이 나중에 실제로 회담과정에서 청구권 논쟁으로 들어가면서 한-일간에 상당한 격돌을 불러 일으켰겠네요.  

그 충돌의 지점에서 만들어진 것이 일본의 “역청구권” 개념입니다. 일본은 한국에 투여한 자본과 재화가 훨씬 많고 이미 미군정이 몰수해간 일본의 재산까지 합치면 일본이야말로 청구할 게 더 많다는 논리를 폈던 겁니다.  

(10-5) 샌프란시스코 조약에서 일본은 청구의 권리를 포기한다고 되어 있지 않았나요?

당연히 그렇게 명시되어 있지요. 여기서 샌프란시스코 조약의 해당 항목에 대한 미국의 해석이 중요해지는데 미국은 서로 '퉁' 쳐라, 그런 식으로 나오게 됩니다. 이른바 “상쇄론”입니다. 여기에 대해서는 다음에 좀 더 자세히 다룰게요. 일본의 “역청구권” 논리는 이 상쇄작전을 염두에 두고 제기한 것입니다.   

(10-6) 하나 잘 몰라서 묻는데요, 지금(地金) 그리고 지은(地銀) 이게 뭐지요?

네, 화폐 등으로 조물하기 위한 소재가 되는 금이나 은을 말하는데 그 말대로는 땅에서 캔 금과 은이라는 뜻입니다. 쉽게 “금괴”라고 이해하면 가장 빠를 겁니다. 그런데 이게 중요한 까닭은 은행의 준비금으로 쓰이기 때문이지요. 그러니까 지금이나 지은의 보유고가 낮거나 고갈되면 화폐 발행 결정에 중대한 문제가 생겨납니다.  

“지금”만 따져서 조선은행 통계에 따라 정리된 내용을 살펴보면, 1909년부터 1945년까지 조선의 지금 생산총량이 407톤, 이 중에 조선은행을 통해 일본으로 간 지금이 250톤 그러니까 총량의 60퍼센트가 넘는 양이지요. 이 대금이 5억 6천만 엔을 넘는데 이걸 일본에게 돌려 줄테니 현물로 도로 반환하라는 요구를 한 겁니다. 금괴반환 요구입니다.  

그렇지 않아도 조선총독부는 1945년 8월 15일 패전 이후 9월 8일 미군이 한반도에 진주하기 전 화폐를 마구 발행해서 엄청난 인플레이션의 고통을 주고 떠났습니다. 물가가 두 배 이상 뛰어 그 피해가 막심했던 거지요.  

 

▲ MBC 취재 기자를 폭행하는 '식민지 근대화론' 연구자 이영훈 교수. 식민지 근대화론, 이른바 '일본의 식민지배는 한국에 은혜'라는 논리는 '식민 지배 불법'을 기를 쓰고 인정하지 않으려는 일본에 그 근거가 된다. 한국의 '극우'가 만든 논리는 일본 '극우'의 논리의 숙주가 된다. ⓒMBC 화면 갈무리

(10-7) 그런데 '대일배상요구조서'는 1권이 반환항목, 2권이 전쟁피해 배상으로 되어 있다면 식민지 지배에 따른 피해 문제는 정면으로 제기하지 않은 셈이 되나요?

그렇기도 하고 그렇지 않기도 합니다. 묘한 대답이지요? 식민지배의 불법성을 전제로 하고 그에 따른 손실 전부를 요구할 수 있지만 이 정도로 요구 수준을 정리할 테니 응하라, 이게 '대일배상요구조서'의 입장이었습니다.  

배상요구 조서의 서문은 이렇게 되어 있습니다. “한국은 일본의 과거 36년간의 지배를 비합법적 통치로 각인하는 동시에 그간에 피해 입은 방대하고도 무한한 손실에 대해 배상을 요구할 수도 있다. 그러나 우리의 대일배상요구의 정신에 비추어 차제에 이에 대해서는 전면 불문에 부치는 바이다. 다만, 중일전쟁 및 태평양 전쟁 기간 중에 한하여 직접 전쟁으로 인하여 우리가 받은 인적 물적 피해만을 조사하여 그 배상을 강력히 요구하는 바이다.” 

(10-8) 아, 식민지 지배의 불법성은 제기하고 배상요구의 수준은 과도하지 않게 하겠다, 이런 논지였군요. 일본은 어떤 반응을 보였을까요? 

이 '대일배상요구조서'를 직접 일본에 전달한 것은 아닙니다. 미국의 지침에 따른 조사보고였고 향후 한일회담 기본 자료로 작성한 것이니까요. 그렇기 때문에 이후 한일회담의 과정에서 이러한 내용과 논지가 자연스럽게 나오게 되어 있는 거지요. 

일본은 이미 여러 번 말했듯이 “적법한 한국병합이었다, 그러니 채권이나 보험금 등의 것은 국가의 분리에 따른 인계처리라는 의미로 해결할 수 있지만 배상은 택도 없다”, 이런 식이었습니다. 식민지배의 불법성을 인정하는 것은 역청구권 논리를 붕괴시키기도 하기 때문입니다. 불법적 재산 형성에 대해 청구할 권리는 애초에 없기 때문입니다.  

이 논의가 가장 첨예하게 정면으로 충돌하는 것이 “일본의 한국지배가 한국에게 은혜를 끼쳤다”는 구보타 망언이 나온 제3차 한일회담이었습니다. 우리는 총독부 통계를 입증자료로 내세웠습니다. 한일합병 당시 일본 재산의 구성은 없었는데 이후 95퍼센트가 일본인의 손에 들어갔다는 사실 자체가 바로 일본의 식민지배가 얼마나 가혹한 착취체제였는가를 보여준다고 강조했습니다. 바로 이것이 카이로 선언에서 “한국인들의 노예상태”라고 지적한 바라는 것이었습니다. 

(10-9) 역시 식민지 지배의 본질을 어떻게 정리할 것인가가 최대의 관건이군요.

그렇습니다. 이 문제를 제대로 해결하지 않은 채로 합의를 하는 순간, 문제는 미래로 넘어가게 되고 그 미래는 끊임없이 과거의 반격에 직면하게 되어 있는 것입니다.

     
[韓日協定, 何が問題なのか] ⑨

(10)韓日会談に至るまでの最初のボタンは、サンフランシスコ条約締結と関連した1951年の予備会談だとおっしゃっていましたが、韓国の立場では日本に賠償を要求しようとすればその内容に対する準備があったはずなのですがどうでしたか? 

ーえぇ、ありました。 
米軍政の時期にすでに日本の賠償なくしては南韓の経済建設は難しいという論議が始まりました。この言葉は日本の経済支援が無ければ韓国経済の未来がないということではなく、日本の植民地支配により疲弊した現状に関することです。 

1949年作成された〈対日賠償要求調書〉は、まさにそんな論議と要求の結果物です。1948年政府が樹立されると、この文献は私たち政府の最初の賠償要求内容が盛り込まれたものとなりました。 

(10-1)そのようなものがあったのですね。どのような内容のものですか?

ー二つに分かれて整理されているのですが、そうなった理由があります。アメリカは戦争賠償の論議は除外して「返還に値する性格を持つ項目」だけ一旦提出するようにということでした。明確に是非を問うと賠償ではないということです。アメリカのこのような指針に従って1949年3月、1巻目が作られ、その中には現物返還と確定債権に関する内容が1部と2部に含まれています。現物返還は日本が奪っていった金そして地金と地銀、書籍、美術品と骨董品、船舶等であり、確定債権は、有価証券、保険金、未収金等が含まれた内容です。 

しかし、アメリカは韓国の賠償要求に対して線を引きました。サンフランシスコ講和条約締結がなされる前の時期であったことから、賠償論議は条約締結時に“考慮”することが出来るという態度を示しました。すでに日本に対する政策が変わり、日本の負担を最小化するという方向が決定されていたからです。以前言及した逆コース(reverse course)によるアメリカの一方的通告でした。 

(10-2)韓国政府として相当当惑したことでしょう。 

ーそのまま引き下がりませんでした。状況が切迫していたからです。
1巻目に続く続編を整理します。1949年、その年の9月には2巻目が出来上がります。戦争賠償と植民地被害の一部賠償要求が込められた文献でした。 

2巻目もやはり1部と2部に分けられていて、1部は中日戦争及び太平洋戦争に起因する人的、物的被害、2部には日本政府の低価収奪による損害、要するに強制供出に対する被害を込めました。この2巻の〈対日賠償要求調書〉は、その後請求権論議で非常に重要な基礎資料になったという点で注目する必要があります。特に「在日財産問題」は非常に尖鋭な論争を呼ぶことになるのです。

※供出;国家の需要に対して国民が穀物等を義務的に政府に収めること。特に日帝末期、日帝が物資の窮乏を打開するために穀物、古鉄、鍮器をはじめとする各種物資を民間から強制徴収していたこと。 

 (10-3)「在日財産問題」とは? 

ーよく植民地支配による被害というと、韓半島でつくられた財産とだけ限定して考えると簡単ですが、財産の所在が日本であるけれど、帰属は朝鮮/韓国であるという論旨に基づく問題提起です。 

例えば朝鮮銀行、朝鮮拓殖銀行、朝鮮信託株式会社の支店が日本にありました。そこにある財産は誰のものに帰属されなければならないかという問題だと言えます。朝鮮総督府の東京出張所財産もここに含めて論義されなければならないというのが私たちの主張です。

このように現物から戦争賠償に至るまで全て計算して割り出した額面が、当時の為替で換算すると最小24億ドル(1ドル=15円)から最高75億ドル(1ドル=4.35円)に達します。この額面の差は日本の円貨をどの水準に評価するのかにかかる問題でした。1965年韓日協定で整理された借款を抜いた3億ドルと比較するとこの間の為替変動を考慮しても膨大な差額になるでしょう。

(10-4)このような内容がそのあとで実際の会談過程において請求権論争に入っていくと、韓-日間に相当な衝突を招くことになりましたね。 

ーその衝突の最中に出てきたのが日本の「逆請求権」の概念でした。日本は韓国に投下した資本と財貨が韓国よりはるかに多く、すでに米軍政が没収した日本の財産まで合わせると、日本こそが請求するものがもっと多いという論理を広げました。 

(10-5)サンフランシスコ条約で日本は請求の権利を放棄すると言っていませんでしたか?

ー当然そのように明示されていました。ここでサンフランシスコ条約の該当項目に対するアメリカの解釈が重要になってくるのですが、アメリカはお互いに歩み寄れという風に出てきます。いわゆる「相殺論」です。ここに対しては次回、もう少し詳細に取り扱いますね。日本の「逆請求権」論理はこの相殺作戦を念頭に置いて提起したものです。 

(10-6)ひとつよくわからないことがあるのですが、地金、地銀とはどういうものですか?

ー貨幣などを造るための素材になる金や銀のことで、その言葉通り土から掘った金、銀という意味です。簡単にいうと「金塊」と思えば理解が早いです。しかしこれが重要な理由は銀行の準備金に使われるからです。従って地金や地銀の保有量が低かったり枯渇すると貨幣発行決定に重大な問題が生じます。 

「地金」だけに限定して朝鮮銀行の統計により整理された内容を見ると、1909年から1945年まで朝鮮の地金生産総量が407トン、この中に朝鮮銀行を通して日本に流れた地金が250トン、すなわち総量の60%を超える量ですね。この代金が5億6千万円を超えるので、このお金を日本に返すので現物そのものを返還しろという要求をしたのです。金塊返還要求です。

それでなくとも朝鮮総督府は1945年8月15日敗戦以降、9月8日アメリカが韓半島に進駐する前に貨幣をやみくもに発行して膨大なインフレーションの苦痛を与えて帰りました。物価が2倍以上に跳ね上がりその被害が甚大でした。 

(10-7)しかし〈韓日賠償要求調書〉は1巻目が返還項目、2巻目が戦争被害賠償になっているということで、植民地支配に対する被害問題は前面に提起しないという訳ですね。

ーそうでもあるし、そうでもないとも言えます。微妙な回答でしょう?植民地支配の不法性を前提としてそれによる損失全てを要求することもできますが、この程度に要求水準を整理するから応じろ、これが〈対日賠償要求調書〉の立場でした。 

賠償要求調書の序文はこのようになっています。「韓国は日本の過去36年間の支配を非合法的統治として胸に刻み、同時にこの間に被った膨大であり無限である損失に対する賠償を要求することもできる。しかし私たちの対日賠償要求の精神にのっとり、この機会にこのことに関しては全面不問に付すとする。ただ、中日戦争及び太平洋戦争期間中に限り直接戦争により私たちが受けた人的、物的被害だけは調査してその賠償を強く要求するものとする。

(10-8)あ、植民地支配の不法性は提起して、賠償要求の水準は過度にしないようにするという論旨ですね。日本の反応はどうでしたか? 
 
ーこの〈対日賠償要求調書〉を直接日本に伝えたのではないのです。アメリカの指針による調査報告であり、今後の韓日会談の基本資料として作成したものですから。従ってこのあとの韓日会談の過程でこのような内容と論旨が自然に出てくるようになっているのです。

日本はすでに何度も言ったように「適法な韓国併合であった。なので債権や保険金等は国家の分離による引き継ぎ処理という意味で解決することができるが、賠償なんてとんでもない」
このような対応でした。植民地支配の不法性を認めることは逆請求権論理を崩壊させることでもあるからです。不法的財産形成に対して請求する権利は初めからないからです。

この論議が前面にでて最も過激に衝突したのが『日本の韓国支配が韓国に恩恵を与えた』という久保田妄言が出てきた第3次韓日会談でした。私たちは総督府統計を立証資料として差し出しました。韓日併合当時日本の財産の構成はなかったのですが、以降95%が日本人が手にしたいう事実自体がまさに日本の植民地支配がどれだけ過酷な搾取体制であったのかを示すことだと強調しました。まさにこのことがカイロ宣言において「韓国人たちの奴隷状態」と指摘したところに繋がるのです。 

(10-10)やはり植民地支配の本質をどのように整理するかが最大のカギですね。

ーえぇ、そうです。この問題をきちんと整理しないまま合意をすると、問題を未来に持っていくことになり、その未来は限りなく過去の反撃に直面することになっているのです。

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